北斗学
『北斗の拳』のテキスト構造について
『北斗の拳』の物語構造についての論攷
分析
解釈
考察
『北斗の拳』そして『北斗の拳』
『北斗の拳』の記録
『北斗の拳』に影響を与えたであろう諸々
----/--/-- ???? 14.ラオウ伝説とプレステ伝説
儂の頭の中にある「北斗学」は『北斗の拳』の特異性を主張し、『北斗の拳』が如何に特別であるかを主張するものではない。寧ろ『北斗の拳』の特異性を否定し、『北斗の拳』が如何に当たり前の作品であるかを明らかにするものである。
先にも書いたが、『北斗の拳』という作品は実に様々なものに似ていて、これが『北斗の拳』、という要素は何もない。見渡す限りの荒野と横行するモヒカンが『北斗の拳』らしいイメージであると思うが、それも先行する『MAD MAX』や『バイオレンスジャック』『AKIRA』で既に描かれていて当時特別珍しいものではなかったし、インパクトある人体破裂の描写も『童夢』『AKIRA』が先にあって、決して見慣れぬものではなかった。熱き男の戦いを描いていたと云ったって、先に本宮ひろ志がいて散々描いていたし(武論尊の親友である!)、同じ週刊少年ジャンプ誌上には『キン肉マン』も『リングにかけろ』もあった。原哲夫の絵自体が、原哲夫は小池一夫主催の「劇画村塾」で学んだ人であるし、それを考えずとも永井豪、大友克洋、本宮ひろ志、池上遼一の系列から外れる絵ではなく、当時皆が見慣れぬ新しい絵というわけではなかった。中国拳法というイメージだって、『北斗の拳』の第一話は李小龍の『燃えよ!ドラゴン(原題:ENTER THE DRAGON)』の公開から十年を経た後で、これも目新しくはなかったのだ。当時、『北斗の拳』にあるイメージは、どれもこれも、ごく当たり前のものに過ぎなかった。
強いて云えばこれらを巧く織り交ぜて調和させたことが『北斗の拳』の巧さだったのかも知れないが、『北斗の拳』の特異性を否定するにはこれくらいで充分であろう。悪い言い方をするならば『北斗の拳』はそれほど凡庸であった。
然しこれをパクリというなかれ。近頃は物知らずもものが云えるようになって、やれパクリ、これパクリと煩く、中には「『蒼天の拳』は『北斗の拳』のパクリ」だなんて云える愚者が野放しになっている御時世であるが、継承、蹈襲、参考、オマージュ、翻案なんて言葉があって、『北斗の拳』のものは何れもパクリ以外の言葉で形容出来るものばかりである。また、これは物語論の常識であるが、全ての物語は遡れば全て神話のパクリである*1。それをこの二三十年内の作品に限ってやれパクリほれパクリというのは底の浅い、議論とも云えぬ戯言に過ぎない。
兎角亀毛、『北斗の拳』は凡庸である。然し『北斗の拳』はこの上なくウケた。どれくらいウケたかは説明する必要などあるまい。では何故凡庸な『北斗の拳』が斯くも世に受け入れられたのであろうか。
松本孝幸は西洋的価値観からこぼれ落ちる「アジア的な感性」が描かれているからだと謂った*2。大塚英志は『北斗の拳』に拘らず週刊少年ジャンプ自体が少年漫画のパロディだったからだと説いた*3。それはどちらも正しいと思う。だが、儂はそれを踏まえた上で、『北斗の拳』が古典的だったからだと考えている。
物事を予定通りにこなす、指示通りにこなすというのは、信じられないかも知れないが、実は愉しい作業だ。それはあらゆるスポーツ、ゲームがセオリー通りのルーチンワークであることを考えれば容易く理解出来る。演劇や舞踊、音曲の面白さもそうだ。『ダンスダンスレボリューション』や『太鼓の達人』などのリズムを刻むゲームが一時期えらく流行ったが、あれも画面の指示に完璧に従うだけの遊びだったが故にウケた。物事が全く予定通り、指示通りに運ぶと人は気持ちよさを感じるように出来ている。新たな要素が加えられて、それが面白かったとしても、それは新たなパターンが加えられるだけのことで、新しいこと、珍しいこと、慣れないことが面白いわけではない。
それは物語という形になっても変らない。寧ろ極端ですらある。毎年年末になったらテレビ放送される『忠臣蔵』や『水戸黄門』『大岡越前』などえらく長い間作られている時代劇、香港の功夫映画、「湯けむり湯泉美人OL云々」といった毎回殺人事件がおこってるのに脳天気に蟹を食う二時間サスペンスもののテレビドラマ、あり得ない頻度で殺人事件にまみえる少年が出てくる『金田一少年の事件簿』『名探偵コナン』の如き推理もの、毎回あまり内容に違いがない『仮面ライダー』や『スーパー戦隊シリーズ』『ウルトラマン』の如き特撮ものや『コンバトラーV』『ボルテスV』から勇者シリーズに至るまでのロボットアニメ作品群、昔見た記憶があるようなトロくさい内容の韓流ドラマ、毎回同じ粗筋で同じギャグをやる吉本新喜劇、延々国定忠治を上演している大衆演劇、ワイドショーで報じられる芸能人の離婚報道などなど、それらが延々飽きられることなく消費されていることを見れば充分であろう。
これらが延々面白く消費されているということは、物語は凡庸であれば凡庸であるほど面白いということになる。だからハリウッドでは映画の作り方がマニュアル化されていたりする*4。『北斗の拳』の面白さはこういった"延々飽きることなく同じものを見る"ことの面白さで、規模が大きくなったり小さくなったりはするが、基本的に内容は毎回同じ、ケンシロウがデカい悪党を殴り殺す、その繰り返しに過ぎない。この単純なルーチンが滞りなく繰り返されることが心地よさとなり、面白いのだ。
此処では以下のことを論う予定にしている。
「『北斗の拳』の物語構造についての論攷」では文字通り『北斗の拳』の物語の構造についてあれこれと考える。大きく三段に分けて、先づ物語構造の分析を行い、次いで物語り構造の解釈を行い、最後に儂の考察を置いた。實は先に考察の結論を思いついて、それを確認する為に分析し、解釈を行うたものだから、考察の結論は分析、解釈によって発見した結果ではない。手順は全く逆で、論としては歪なものである。但しこの場合の解釈は思考実験であり、分析はその準備に過ぎず、分析、解釈の際には考察の内容を全く無視し、違う結論が出たなら仕方がないと思いながら行うた。尚、考察の内容は一部interQ時代に公開していた記事に含まれているので、目次を読んだだけである程度結論を推測出来る人がいるかも知れない。尚、本論は全三章、都合十七段に分けてあるが、この構成は何も必要あってのことではない。一寸した遊びだ。種明かしは最後まで書き終えた時にしよう。
「『北斗の拳』そして『北斗の拳』」では、『北斗の拳』ではないが『北斗の拳』にまつわる様々な事柄について、微に入り細に入り論じる。一見『北斗の拳』と関係しないような話もあるが、如何なるものが『北斗の拳』を生む土壌になり、『北斗の拳』が如何なるものを生む土壌になったかを語らんとする為、『北斗の拳』にしか興味がないという人には面白くないだろうが、『北斗の拳』を起点にしても色々愉しめんことがあるということを知って頂ければ幸いである。
儂が云う北斗学の大系は『北斗の拳』が凡庸な作品であると認めた上で、如何に『北斗の拳』が優れた作品であったかを証明する為のものである。だから『北斗の拳』が凡庸であったことを念入りに検証するつもりである。一見それは『北斗の拳』を貶めているように感じられ、不愉快に思われる方もあろうが、最終的には『北斗の拳』が偉大な作品であったことを大袈裟すぎるくらいに大袈裟に証明する手筈なので、それが辛抱出来そうならば辛抱して頂きたい。
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[北斗学] くだらなくて長いよ
ほんとに読む気? |