三十一篇全比較
14.天翔る天狼篇
リュウガは変な人だ。その不可解な行動故に北斗istの間でも長らくリュウガが何を目的に登場した人なのかは殆ど理解されず、単にトキを殺す為だとか、間保たせだとか、時には失敗作だとか云われてきた。儂はユリア再登場をそれとなく予告する為だと考えていたが、人に話すと後知恵だとかジャンプ漫画がそんなことを考えていたわけはないとか評判は芳しくなかった。然し北斗istでも知らぬ人が多いようだが『大阪芸術大学 大学漫画 vol.4』で掲載されたインタビューを読むと儂の説が正しかったらしい。
どうも原御大が車田正美を軽蔑していたように読めるが、それは措くとして、三年目といえば連載開始満二年、丁度連載百回に差掛かる辺りである。リュウガはこの頃に登場し、死んだキャラクタだ。これでリュウガの登場目的は明らかであろう。間違いなくリュウガはユリア再登場をそれとなく読者に報せる為に登場したのだ。だからユリアの兄でなければならなかった。
然しそれまで単なる美しい故人だったユリアがえらい出世である。リュウガは「この世の為」と割切ってラオウ様とケンシロウ、どちらが時代を担うに相応しいか比較する為に敢て狂気の殺戮に及ぶのであるが、これが後のラオウ様とケンシロウによるユリア争奪を兆すのなら、リュウガは明らかに「ユリアの為」の婿選びと「この世」の行く末選びを混同している。そして事実リハクやフドウはこの後のユリア争奪と「この世」の行く末を不可分に結びつけていた。
この篇の物語は「ユリアの為」と「この世の為」を結ぶことではじめて理解出来るように作られている。逆に云えばリュウガが「ユリアの為」と「この世の為」を結びつけている。次篇以降でも「ユリア」と「この世」の関係は實は曖昧なのだが、リュウガ→五車星が「ユリア」と「この世」を仲介していたので、当時の読者はその曖昧な関係に殆ど誰も気付いていない。その割を食う恰好でリュウガの評価が曖昧になったが、敢て魔狼に落ちたリュウガである。抑も理解者を求めてはいなかった。「ユリア=この世」を誘導出来れば読者にすら理解される必要はなかった。
14.天翔る天狼篇 105-109話(全05話)
| 序 #106:05 |
破 #107:11 |
急 #108:16 |
| 起 #105:14 |
承 #106:18 |
転 #108:03 |
結 #109:09 |
序:リュウガ登場、泰山天狼拳
破:無抵抗など武器にはならぬ
急:返り血が涙に見える
この篇は殆どリュウガの一人称で物語が展開する。リュウガが何を考え、どう行動したかが描かれている。だから序破急の三枚を見ると、序でリュウガが現れ、破でリュウガが考え、急でリュウガが行う、と窮めて簡潔で、この序破急(正確には前後二頁程を含む)でリュウガの思想はおよそ描かれている。この限りに於いてリュウガは理解に易い人物だ。
起:拳王様なき荒野→ケンシロウ降臨→天狼星のリュウガ
承:拳王様御帰還→リュウガ服従→リュウガの望み
転:恐怖と無垢→敢て魔狼に→トキ襲撃
結:リュウガの城へ→ケンシロウ憤怒→リュウガ確信
起承転結の四段を見ても、「天翔る天狼篇」は意外に判り易い。起でケンシロウ登場、承で拳王様御帰還、転でトキ襲撃、結で対ケンシロウ、となっている。読み損なう餘地はない。だがそれとなく裏設定を含む多くの描写と台詞がリュウガを難解なように見せる。
先づ起であるが、これは「カサンドラ篇」と対比することで意味を汲取ることが出来る。「カサンドラ篇」で武御大は拳王様の御登場に先立ち"カサンドラ"という箱庭的モデルケースを提示、拳王様が統治する世が如何なるものかを描いたが、この篇の冒頭ではアビダとゴンズが治める村をモデルケースとして今度は拳王様の統治せぬ世が如何なるものかを描いている。このことでラオウ様の仰有ることも暴力が支配する「この世」に於いては一つの道理であることが解る。
リュウガはその道理を証明し保証する人だ。故に「伝説を汚すで/あろう枝を/払」う(JC:12:173)。然しそのことは部下にも理解されていない。この行で既にリュウガは何者の理解も求めていない。御帰還あそばされた拳王様にケンシロウとの戦いを願い、認められるが、そのことも、拳王様ですら理解出来なかった。「天空の極星/南北ふたつに割れた時/こぼれ落ちて天に舞った/孤独の星 天狼……」「わからぬ…」「なにもの/にも くみせず/天涯孤独の星が/なぜこの/ラオウに/忠義を誓ったか…/そして 今 なぜ/ケンシロウとの/勝負を望む……」(JC:12:180)。
ここでリュウガは無抵抗主義のエピソードを回想し、これを以て拳王様を定義する。拳王様は「意志を捨てねばならぬくらいなら戦って死ね」と仰有る御方だ。だから「意志を放棄した/人間は人間に/あらず!!」「ただ笑いと/媚びに生きて/なにが人間だ」(JC:12:187)と件の村長を強かに戒め殺した。これが拳王様である。
念の為、この件の村長が主張する無抵抗主義はマハトマ・ガンジー(Mahatma Gandhi/Mohandas Karamchand Gandhi 1869/10/02-1948/01/30)の非暴力運動とは似て非なるものだ、ということを記しておかねばなるまい。ガンジーは人が最期まで己の意志を保つ為に無抵抗不服従を薦めた人である。故にこういうことすら云うた。「ヒトラーはユダヤ人を五百万人殺した。我々の時代においてこれは最大の犯罪だ。然しユダヤ人は自らを屠殺人のナイフの下に差出した。崖から海に身を投げれば英雄的な行為だったのに」。命長らえる為に服従し「自分の心を/捨てろと」と教えた件の村長の主張とはまるで内容が違う。ガンジーの思想は寧ろ拳王様の主張に近いくらいで、その点を間違えてはならない。
次いで唐突に「ユリアの兄」という設定が出てくるが、これは面白い読替えが出来る。リュウガをユリアだと見立てて読むと、まるで色恋の話に見えるのだ。例えば「これは/あなたに対する/裏切りではない/ただ もうひとつの/北斗をこの目で/確かめたいだけの事」(JC:12:189)など、一度はラオウ様を選びラオウ様の女になりながらケンシロウのことも忘れられぬ、と云うているように読めてしまう。ラオウ様は頼り甲斐があって男として申し分ないのだけども、ケンシロウの優しいところも捨てがたい、でも優しいだけじゃ物足りないから、頼もしいところもみたいわ、ねぇトキ、ひとつ協力してくれないかしら、というユリアの声が聞えてきそうであるが、抑もリュウガは「この世」の行く末をどちらに託すべきか問うているから、この「ユリア」と「この世」はこう読替える限りは交換可能である。とすると、矢張りリュウガは「ユリアの為」と「この世の為」を同一視している。ならば拳王様が坐る玉座はユリアと同一視出来よう。リュウガは玉座に一旦坐りながら、敢て態とらしく拳王様に譲る。それはそのことを表していたのかも知れない。因みに古代エジプトでは前王の妃を娶ることが王位継承の条件とされ、王は「大きな家」、王妃は「玉座」と呼ばれていた。
そこまで考えると、トキとリュウガの会話は實に意味深長である。どうもトキだけはリュウガが考える「この世の為」=「ユリアの為」の理窟を理解していたように見えるのだ。でなければ何故リュウガ如きに「この世」の行く末を決められる謂れはあるまい。もしリュウガにその権限があるとすると、それはリュウガがユリアの兄であり、ユリアと「この世」が交換可能であるから、としか説明出来ない。そして「ユリア=この世」の理窟が有効であるなら、ユリアは巷説に反して生きている筈である。然も南斗最後の將であることも知らなければならない。となると、リュウガとトキの会話は『ユリア伝』で描かれたトキとユリアの瞼の母の如き再会があったことを裏付ける。堀江御大の仰有る通りに連載当時からあった裏設定だったことを示している*1。
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