三十一篇全比較
27.修羅の国決着篇
初めに述べたように、カイオウは設定こそラオウ様の兄であるが、その人物造形は寧ろジャギ、サウザーに近く、ラオウ様に似た要素といえば、精々容貌と背格好、あとは膨大な闘気の量、従順な愛馬くらいで、人柄に至っては全くの正反対、ラオウ様とは似ても似つかぬ男である。カイオウは、ジャギがケンシロウを憎み陥れんとしたが如く北斗宗家を憎んで策謀を弄び、サウザーが師父オウガイの死を乗越えられず墳墓を造り悪逆の聖帝と成果てたが如く母者の死を悼む餘りに墓所を造立し悪の権化と成果てた。天を目指し弟たちに敬愛されるに足る最強者たらんと欲したラオウ様の兄とは思えぬいじけにいじけ抜いた生涯であった。そのいじけ抜いた人柄は殆ど餓鬼と同じ、成熟には程遠い幼児性を抱えた小人物であった。
とはいえ、勿論カイオウとて「新世紀創造主」たらんと志した英傑の一人である。優れた器量を具えた人物であったことは間違いない。だが所詮は白痴のデミウルゴスである。修羅の国などという不完全な世界しか創造出来なかったことでそれは明らかだ。修羅たちには全知全能のように見えたかも知れぬが、到底「新世紀創造主」などとはとても云えぬ昏君だった。カイオウにもそれなりの理想があったのやも知れぬが、所詮は出来の悪いイデアの模造品しか創造出来ぬデミウルゴス、女の愛に生きた男たちに滅ぼされた仕儀も当然の成行きという他ない*1。
27.修羅の国決着篇 200-210話(全11話)
| 序 #202:15 |
破 #205:10 |
急 #208:05 |
| 起 #201:08 |
承 #204:03 |
転 #206:17 |
結 #209:12 |
序:狂気の馴初め
破:北斗逆死葬
急:歪み汚れた血
起:封印の聖塔→死環白→カイオウの霊地→サモトの花嫁→母者の死
承:死環白の女→訣別の証→心を刻む→北斗の屑星→覇王の遺言
転:激愛戦士ヌメリ→逆死葬脱出→女人像の秘拳→北斗神拳創造秘話→倒すことが愛
結:カイオウ陸戦隊→宗家の拳の限界→バット参上→最後の一撃→カイオウ最期
カイオウの愛犬リュウは餘りにも判り易い譬喩だ。あれは理想的なカイオウ、本来カイオウが目指すべきイデアである。宗家の従者として生れ落ちたカイオウは、犬のように宗家を慕い、犬のように宗家に尽すことを求められていた。
処がカイオウは愛犬リュウと戯れながら「おまえは/ジュウケイの/言っていることが/わかるか?」「オレは/犬ではない!!」(JC:23:089-90)と問う。これは別にラオウ様に問うているわけではなかろう。カイオウは己の似姿であるラオウ様の存在を借りて己に問うているのだ。自問自答である。
「ラオウ…」「おまえは/ジュウケイの/言っていることが/わかるか?」「オレたちは/北斗七星の/惑星だという」「北斗七星に/仕え/北斗七星の/ために死す/惑星と…」「だがオレには/解らぬ!!」「この/リュウの/ように/犬ならば生涯/主人に仕えも/しよう」「だが/オレは/犬ではない!!」(JC:23:089-90)
最早三十男になった儂には懐かしい主張である。儂は早熟で早くにこの世に絶望した為こういうことを餘り強く思わずに済んだが、友人どもは十代二十代の頃によくこれに似たことを喚いていた。今でも稀に居酒屋などで若い客がこういうことを喚いているのを聞く。つまりこれは十代二十代の若者が一度は抱く父親や社会に抱く疑問である。社会が己を単なる企業の奉公人に仕立てようとする時、多くの若者はカイオウと同じことを考えるのだ。
然し、己には何か人にはない才能がある、何かは判らないが大きな夢がある、と思うのは、若者が抱きがちな幻想である。假にこんな青臭い幻想を抱こうとも、大抵の者は程々の頃合いでどうしようもない高い壁にぶつかるので、否応なく己の器量を知るに至り、程々に折り合いを付け、それなりの平穏を見付け、何でもない一凡人として餘生を送る道を見付けるのであるが、カイオウの不幸はうっかり衆に優る才能を具えており、曲なりにも己の理想をある程度実現出来たことだ。だからヒョウは「オレは希代の/英雄に/なっていたで/あろう/男を潰した/のだ!!」(JC:23:144)と悔いねばならない。厳密にはヒョウの所為とは云えないが、カイオウはヒョウの器量を物足りないと思うたが故に歪まざるを得なかった。だからヒョウの謂う通りカイオウの器量はヒョウが「潰した」と云える。「潰した」というよりは、「歪めた」とした方がよいか。
「この/リュウの/ように/犬ならば生涯/主人に仕えも/しよう」「だが/オレは/犬ではない!!」という問いは、この頃カイオウに自我が芽生え始めていたことを示している。つまりこれは哲学的な公案であった。処がそんな重要な時期にカイオウは極めて心を抉る形で母者を失うた。カイオウのまだ芽生えたばかりの未熟な自我は脆くも砕け千々に千切れ、カイオウが己を保つ為には母者が庇ったヒョウとケンシロウ……つまりは宗家を恨むより他なかった。だから、この頃まだ幼かったヒョウに責任を問うことは出来ないが、ヒョウは怨まれても仕方がない…とは云えぬまでも、カイオウがヒョウを恨んでも、それを筋違いとも、悪いとも云えまい。この頃のカイオウは、幼くもなければ、成熟もしてはいなかったのだ。
だからカイオウは宗家に生かされていたとも云える。カイオウは砕けた自我の空隙を憎悪で埋めていた。憎悪も一種の依存である。敬愛と憎悪は同じ依存の表裏に過ぎない。故にヒョウが強大であれば或いは歪まずに済んだかも知れない、と思うわけだ。ジュウケイは「母をほめて/やるがよい!/おまえたちの/母だからこそ/できたことだ!!」(JC:23:097)と云うてカイオウとラオウ様を慰めた。確かにヒョウが後に強大に育っておれば、カイオウは「母者がヒョウを助けたのだ」と思うことによって救われる。ヒョウの存在が母者の空隙を埋める。カイオウが宗家を憎悪することはない。一時は歪んだとしても、曲なりにも修羅の国を造った男だ。劉宗武よろしく悟りを開き「希代の/英雄に/なっていたで/あろう」。
だが、残念ながらヒョウの器量では母者の空隙は埋められなかった。カイオウから見てヒョウは母者に遠く及ばなかった。だからカイオウは歪んだ。ヒョウが自覚する通りである。その末に「井の中の蛙」呼ばわりされるのだから、カイオウは本当に憐れな男だ。気の毒に過ぎる。
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