ユリアや若を奈何せん
2007/10/10 発掘公開
楚王項羽
いきなりだが下記の文をよく読んで頂きたい。
項王軍壁垓下。兵少食盡。漢軍及諸侯兵圍之數重。
項王の軍、垓下に壁す。兵少なく食尽く。漢軍および諸侯の兵、これを囲むこと数重。
夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰、
夜、漢軍の四面、みな楚歌するを聞き、項王すなわち大いに驚きて曰く
漢皆已得楚乎。是何楚人之多也。
「漢、みなすでに楚を得たるか。これなんぞ楚人の多きや」
項王則夜起飲帳中。有美人名虞、常幸従。駿馬名騅、常騎之。
項王すなわち夜、起きて帳中に飲す。美人あり、名は虞、常に幸せられて従う。駿馬あり、名は騅、常に之に騎す。
於是項王乃悲歌慷慨、自為詩曰、
ここにおいて項王すなわち悲歌慷慨し、自ら詩を為りて曰く、
垓下歌項羽
力抜山兮氣蓋世 時不利下騅不逝 騅不逝兮可奈何 虞兮虞兮奈若何
力山を抜き、気世を蓋う。時に利あらず、騅逝かず。騅の逝かざるを奈何すべきか。虞や虞や若を奈何せん。
歌數
。美人和之。
歌ふこと数ケツ。美人これに和す。
虞美人返歌
漢兵已略地 四方楚歌声 大王意気尽 賎妾何聊生
漢の兵已に地を略し、四方楚歌の声。大王意気尽く、賎妾何ぞ生を聊わんや。
項王泣數行下。左右皆泣、莫能仰視。
項王泣数行下る。左右皆泣き、よく仰ぎ視るものなし。
高校で漢文を真面目に勉強していた人ならお憶えかも知れない。これは『史記項羽本紀第七』より引いた一節で、「四面楚歌」の語源としてよく知られる行である。楚王項羽は局地的な戦では敵対する漢王劉邦に連戦連勝しながらも戦術的に破れ徐々に追詰められ進退窮まって遂に垓下の城に立て籠った。その城内の様子を描いた文であるが、『北斗の拳』を愛する者ならば、これを見て想うことはなかろうか。念のために現代文も載せておこう。よく読んで欲しい。
項王軍は垓下の城に立て籠った。既に兵は少なく兵糧も尽きた。漢王軍及び諸侯の兵は幾重にもこれを取り囲んでいた。夜、四面を囲む漢軍がみな楚国の歌を歌う声を聞き、項王は大いに驚いて云った。
「漢軍は既に楚国を得たか。なんと楚人の多きことよ」
そこで項王は夜起き上がって陣営で酒宴を開いた。項王には虞という愛人を常に従わせていた。また騅という駿馬を愛乗していた。この時、項王は悲しげに歌い嘆いて自から詩を詠んだ。
「我が力は山を抜き、我が気は天下を蓋う。だが時勢は味方せず、騅も進まぬ。騅よ、お前が進まねばどうしよう。虞よ、虞よ、お前をどうしてやれるだろうか」
これを数度歌うと、和して虞も詩を詠んだ。
「漢の兵は既にこの地を得、四方から楚歌が聞えてきます。大王の意気も尽きてしまいました。私のような者がどうして生き存えることを望みましょう」
項王の目から涙が落ち、左右の者も皆泣いて、顔を上げる者はいなかった。
どうだろう。北斗istならもうお解りだろう。判り易いよう敢て現代文に訳す際「項羽」とせず「項王」のままにしておいた。これで判らねば北斗istじゃない。
そう、この文の内容はケンシロウに敗れフドウにも敗れたラオウ様が敗因である「愛」を知る為にユリアを殺そうとした故事と殆どぴたりと一致するのだ。進退窮まって垓下で籠城する項羽はケンシロウにもフドウにも敗れ進退窮まったラオウ様、次いで四面で楚歌を歌う漢軍の兵は武具を焼いて家族の許に帰る拳王軍の兵、虞美人は勿論ユリア、騅は黒王号、夜宴で詠んだ「力は山を抜き…」の詩は「燃えさかる/炎もこの完璧なる/肉体をやくことは/できぬ!!わが肉体は/無類無敵!!」「されど哀しみは/この肉体を/凌駕すると/いうのか!!」(JC:15:111)という玉座での思案、虞妃の返歌は「わたしに/みつめられて/いては突きにくい/でしょう」「わたしも/天に/帰りましょう」(JC:15:142-143)というユリアの決意、顔を伏して泣く左右の将らはユリア殺害を止めるザク様たちとほぼ重なる。だからユリアの病を知って落涙し、「な…/なんという/女よ!!」「こ…殺せぬ/このラオウに/この女は」「捨てる事は/できぬ!!」と秘孔を点いたラオウ様は、将に「ユリアやユリアや若を奈何せん」とユリアを假死させた項羽である、と読めるのだ。この後「賎妾何ぞ生を聊わんや」と唱った虞美人の生死が記されていないことも、ラオウ様に「おまえの/命をくれい!!」と求められた後、假死、つまり生死定かでない状態に陥ったユリアと重なる。
恐怖の紀元前末覇者項王
『水滸傳』に地空星の周通という好漢がいる。席次は八十七番、騎兵軍小彪将兼斥候十六名の一人で、好漢と呼ばれながらも桃花荘の劉大公の娘に目を付け、縁組みを無理強いし、それを助けんとして花嫁に化けた主役級の好漢魯智深にしこたま殴られるというケチ臭いチンケな山賊だが、この男の渾名、何のつもりか「小覇王」と謂う。よく「『三国志』の孫策に因む渾名」と説明する人が居るが、これは間違いで、斯く謂う孫策の渾名も確かに「小覇王」だが、これが抑も「覇王」と呼ばれた項羽に因むものだ。勿論「覇王」は一般名詞なので、「春秋五覇」などと謂うように過去に「覇王」は幾人もいたが、尋常に「覇王」と云えば支那では項羽を指す。だから「小覇王」は「項羽二世」くらいの意味だ。
「覇王」と云えば普通は項羽のことである。処が『北斗の拳』ではラオウ様のことを謂う。同じ覇道を進みながらも、サウザーは「帝王」、カイオウは「創造主」などを称し、誰も「覇王」を自称しなかった。このことから、飽くまで「覇王」の称はラオウ様だけのものである、ということが判る。その「覇王」の称を共に戴くだけあって、ラオウ様は實に項羽とよく似ている。その内面は殆ど同一人物と云ってよい。例えばこんな話がある。
秦始皇帝遊會稽、渡浙江。梁與籍倶觀。
秦始皇帝、會稽に遊び、浙江を渡る。梁、籍とともに観る。
籍曰、彼可取而代也。
籍曰く「彼、取って代わるべきなり」。
梁掩其口、曰、毋妄言。族矣。
梁、その口をおおいて曰く、「妄言することなかれ。族せられん」。
梁以此奇籍。
梁、これを以って籍を奇とす。
現代文に訳すると…
秦の始皇帝が會稽を巡行して浙江を渡った時、項梁(項羽の叔父)は項籍(項羽の諱。羽は字)を連れてこれを見物した。籍は「あれに取って代ってやるぞ」と云った。項梁はその口を抑えて「滅多なことを云うな。一族皆殺しだぞ」と云った。それから項梁は籍に一目置くようになった。
どうだろう。北斗istならば憶えがおありだろう。ラオウ様も似たことを仰有ったことがある。JC:07:166-168の印象深い行だ。
リュウケン「ラオウ/北斗神拳を/なんにつかう」
ラオウ様「フ……/知れたこと」「おのれの/ためだ!!」
リュウケン「おのれの!?」「それで/なにを/めざす!!」
ラオウ様「天…!!」
リュウケン「それは/天にたち/権力の座に座わる/ということか!!」
ラオウ様「この世に生を/受けたからには/おれは すべてを/この手に握る!!」
リュウケン「そんなことは/神が許さぬ/ぞ!!」
ラオウ様「ならば/神とも/戦うまで!!」
ラオウ様も「天可取而代也」と仰有ったわけだ。格好良すぎる。
更に項羽はラオウ様と同じくよく怒る。
行略定秦地、函谷關。有兵守關。不得入。
行く秦の地を略定し、函谷関に至る。兵あり關を守る。入ることを得ず。
又聞沛公已破咸陽。項羽大怒、使當陽君等撃關。項羽遂入、至于戲西
また沛公すでに咸陽を破れりと聞く。項羽大いに怒り、当陽君らをして關を撃たしむ。項羽ついに入り、戯西に至る。
沛公軍霸上、未得與項羽相見。沛公左司馬曹無傷使人言於項羽曰、
沛公、覇上に軍し、いまだ項羽と相まみえるを得ず。沛公の左司馬曹無傷、人をして項羽に言わしめて曰く、
沛公欲王關中、使子嬰為相、珍寶盡有之。
「沛公、關中に王たらんと欲し、子嬰をして相たらしめ、珍宝はことごとくこれをたもてり」
項羽大怒曰、旦日饗士卒、為撃破沛公軍。
項羽大いに怒りて曰く「旦日、士卒を饗し、ために撃ちて沛公の軍を破らん」
劉邦が項羽より先に咸陽を陥したと聞いて「大怒」、劉邦が関中の王になろうとしていると聞いてもう一度「大怒」している。つまり同じことで二度「大怒」しているわけだ。こんな工合で項羽はいつも怒っていた印象がある。
相守數月。當此時、彭越數反梁地、絶楚糧食、項王患之。
あい守ること数月。この時にあたりて彭越しばしば梁の地に反し、楚の糧食を絶つ。項王これを患う。
為高俎、置太公其上、告漢王曰、今不急下、吾烹太公。
高俎をつくり、太公をその上に置き、漢王に告げて曰く、「今、急に下らずば、われ太公を烹ん」
漢王曰、吾與項羽倶北面受命懷王、曰約為兄弟。
漢王曰く、「われ項羽とともに北面して命を懷王に受け、約して兄弟とならんといいたり
吾翁即若翁。必欲烹而翁、則幸分我一杯羹。
わが翁は即ちなんじの翁なり。必ずなんじの翁を烹んと欲せば、幸いに我に一杯のあつものを分かて」
項王怒、欲殺之。
項王怒り、これを殺さんと欲す。
降伏せなお前の親父を煮物にしたるぞ、と脅したら、煮物が出来たら分けてね、と返されて、ほんまにやったるからな、と項羽が怒る行、この辺りは劉邦の老獪さが映えるが、この話が凄いのは、この後のことである。
楚漢久相持未決。丁壯苦軍旅、老弱罷轉漕。
楚漢久しくあい持し、いまだ決せず。丁壯は軍旅に苦しみ、老弱は転漕につかる。
項王謂漢王曰、天下匈匈数歳者、徒以吾両人耳。
項王、漢王に謂いて曰く、「天下、匈々たること数歳なるは、ただにわれ両人をもってなるのみ。
願與漢王挑戦決雌雄。毋徒苦天下之民父子爲也。
願わくは漢王と挑戦し雌雄を決せん。いたずらに天下の民の父子を苦しむるをなすなからん」
漢王笑謝曰、吾寧闘智、不能闘力。
漢王、笑いて謝して曰く、「われむしろ智を闘わさん。力を闘わすこと能わず」
項王令壮士出挑戦。漢有善騎射者樓煩。楚挑戦三合。樓煩輒射殺之。
項王、壮士をして出でて挑戦せしむ。漢王よく騎射するもの樓煩あり。楚、挑戦すること三合。樓煩すなわち射殺す。
項王大怒、乃自被甲持戟挑戦。樓煩欲射之。
項王大いに怒り、すなわち自ら甲を被り戟を持して挑戦す。樓煩これを射んと欲す。
項王瞋目叱之。樓煩目不敢視、手不敢發、遂走還入壁、不敢復出。
項王、目を瞋してこれを叱す。樓煩、目あえて視ず、手あえて発せず、ついに走りかえりて壁に入り、あえてまた出ず。
漢王使人間問之、之項王也。漢王大驚。
漢王、人をしてひそかにこれを問わしむれば、すなわち項王なり。漢王、大いに驚く。
「天下が騒々しいのは俺とお前の所為だから、いっそタイマンしようぜ」と申出たのに「戦は頭でやるもんだよーん」と笑われたので、仕方なく軍の腕自慢に挑戦させたら、敵に弓自慢の奴が居て、腕自慢を三人も殺された。怒った項羽は自ら出撃し、案の定弓自慢に狙われるが、その弓自慢を睨むや一喝、弓自慢は項羽を怖れて逃げ出したというお話だ。實に拳王様っぽい。
この話から判るように項羽は篦棒に強かった。その武勇は永き五千年の支那史上にあって最強に属するものである。武芸そのものは、
項籍少時、學書、不成、去學劔、又不成。項梁怒之。
項籍少き時、書を学ぶ、成らず。去りて剣を学ぶ。また成らず。項梁、これを怒る。
籍曰、書足以記名姓而已。劔一人敵、不足學。學萬人敵。
籍曰く、「書は以て名姓を記するに足るのみ。剣は一人の敵なり、学ぶに足らず。万人の敵を学ばん」
於是項梁乃ヘ籍兵法。籍大喜。略知其意、又不肯竟學。
ここにおいて項梁すなわち籍に兵法を教う。籍、大いに喜ぶ。ほぼその意を知り、またあえてついに学ばず。
とあるように、敢てしっかりは学ばなんだそうだが、これが戦場に出ると拳王様さながら数多の敵を薙払う。
於是籍遂抜劔斬守頭。項梁持守頭、佩其印綬。
ここにおいて籍、ついに剣を抜きて守の頭を斬る。項梁、守の頭を持し、その印綬を佩ぶ。
門下大驚、擾乱。籍所撃殺數十百人。一府中皆慴伏、莫敢起。
門下大いに驚き、擾乱す。籍が撃殺するところ、数十百人。一府中みな慴伏し、あえて起つものなし。
會稽郡の長官殷通を殺害し郡の指揮権を奪った時のことだ。項羽は百人近い者を斬殺したと謂う。如何に相手が油断していたからとて尋常の人数ではない。ろくすっぽ剣を学んだことがないというのに項羽は尋常でなく強かった。風の旅団を滅し、「オレの力を/知らぬバカども」(JC:20:094)を殺戮したラオウ様を思わせる強さだ。
於是項王乃上馬騎。麾下壯士騎從者八百餘人。
ここにおいて項王すなわち馬に上りて騎す。麾下の壮士の騎従する者八百餘人。
直夜潰圍南出馳走。
直ちに夜、囲みを潰し南に出でて馳走す。
平明、漢軍乃覺之、令騎將灌嬰以五千騎追之。
平明、漢の軍すなわちこれを覚り、騎将灌嬰をして五千騎を以てこれを追わしむ。
項王渡淮。騎能属者百餘人耳。項王至陰陵、迷失道。
項王、淮を渡る。騎よく属する者百餘人のみ。項王、陰陵に至り、迷いて道を失う。
問一田父。田父紿曰、左。乃陥大澤中。以故漢追及之。
一田父に問う。田父あざむきて曰く、「左せよ」。すなわち大澤の中に陥る。故を以て漢、追いついてこれに及ぶ。
項王乃復引兵而東。至東城、而有二十八騎。漢騎追者數千人。
項王すなわちまた兵を引いて東す。東城に至れば、二十八騎あり。漢の騎の追う者数千人。
項王自度不得脱、謂其騎曰、吾起兵至今八歳矣、身七十餘戰。
項王、自ら脱するを得ざるをはかり、その騎に謂いて曰く、「われ兵を起し今に至るまで八歳、身七十餘戰す。
所當者破、所撃者服、未嘗敗北。遂覇有天下。
当るところの者は破れ、撃つところの者は服し、いまだかつて敗北せず。ついに覇として天下を有てり。
然今卒困於此。此天之亡我、非戰之罪也。今日固決死。願爲諸君快戰、必三勝之。
然るに、今ついにここに困しむ。これ天のわれを亡ぼすなり、戦の罪にあらず。
今日固決死。願爲諸君快戰、必三勝之。
今日もとより死を決せり。願わくは諸君の為に快戰し、必ず三たびこれに勝たん
爲諸君潰圍、斬將刈旗、令諸君知天亡我、非戰之罪也。
諸君の為に囲を潰し、将を斬り旗を刈り、諸君をして天のわれを亡ぼすにして、戦の罪にあらざるなり」
乃分其騎以爲四隊、四嚮。漢軍圍之數重。
すなわちその騎を分かち以て四隊となし、四嚮す。漢軍これをかこむこと数重。
項王謂其騎曰、吾爲公取彼一將。
項王その騎に謂いて曰く、「われ公のためにかの一将を取らん」。
令四面騎馳下、期山東爲三處。
四面の騎をして馳せ下らせ、山東にして三処となるを期す。
於是項王大呼馳下。漢軍皆披靡。遂斬漢一將。
ここにおいて項王、大呼して馳せ下る。漢の軍みな披靡す。ついに漢の一将を斬る。
是時、赤泉侯爲騎將、追項王。項王瞋目而叱之。
この時、赤泉侯、騎将たり、項王を追う。項王、目を瞋らしてこれを叱す。
赤泉侯人馬倶驚、辟易數里。與其騎會爲三處。
赤泉侯、人馬ともに驚き、辟易すること数里。その騎と会して三処となる。
漢軍不知項王所在。乃分軍爲三、復圍之。
漢の軍、項王の在るところを知らず。すなわち軍を分かちて三となし、またこれを囲む。
項王乃馳、復斬漢一都尉、殺數十百人。
項王すなわち馳せ、また漢の一都尉を斬り、数十百人を殺す。
復聚其騎、亡其兩騎耳。
またその騎をあつむるに、その両騎をうしなうのみ。
乃謂其騎曰、何如。騎皆伏曰、如大王言。
すなわちその騎に謂いて曰く、「いかに」。騎みな伏して曰く、「大王の言の如し」
この話の項羽は凄い。現代文にしてみよう。
項王は馬に跨った。麾下に従う壮士は八百餘騎。夜陰にまぎれて包囲を脱し、南をめざして走る。明け方近くになって漢軍はこれを覚り、騎将灌嬰が五千騎を率いて追うた。
項王は淮水を渡った。ここまで従った者はもはや百餘騎のみ。項王はさらに陰陵に至るが道に迷うて農夫に訊ねた。農夫は「左へ」と答えたが、これが嘘で、湿地に陥った。漢軍が追いついたのはその為である。
項王が道を引返して東に向い東城に着くと伴は二十八騎まで減っていた。漢軍の追手は数千人。項王は最早逃れられぬと覚悟しその騎に謂った。
「挙兵から八年たち、七十餘戦、あたる敵は破れ、撃てば敵は服し、いまだかつて敗れたことはない。だから覇者として天下を手にした。然し今はここで苦しんでいる。これは天が俺を亡ぼすのであって戦で負けたわけではない。もはや死は覚悟した。願わくはお前たちの為に快く戦って、お前たちの為に包囲を破り、敵将を斬り、敵の軍旗を刈り、お前たちをして天が俺を亡ぼすのであって戦に負けたわけではないとを示してくれようぞ」
二十八騎を四隊に分けて四方に打って出た。漢軍は数重に包囲する。
「俺はお前らの為にあの将の首を取るぞ」
四方に騎を馳せ下らせ、山東の三ケ所に集まる手筈である。項王が大音声を発して馳せ下ると漢軍は草がなびくように倒れ伏した。あっというまに一将を斬った。この時赤泉侯楊喜が項王の背後に逼っていたが、項王は目をいからせて一喝した。楊喜は人馬ともに驚いて数里も逃げた。項王勢が手筈通りに集合すると、漢軍は項王がどこにいるのか判らないので、軍を三つにわけて包囲する。項王は真っ先に突っ込んで、また漢の隊長を斬り、百人近くも殺した。また集合すると、二騎を失っただけ。項王は謂う。
「どうだ」
騎はみな感服していった。
「大王が仰有った通りでした」
誰だ、支那最強武将は呂布だとかいってる奴は。恥ずかしいぞ。どう考えたって項羽だろう。計り知れぬ強さだ。最強と呼ぶに相応しい尋常ならざる武勇、敵を葦か芒の如く殺戮する様は将にラオウ様を思わせる。また項羽は最期がよい。ラオウ様と同じ哀しみ、寂しさがある。
於是項王乃欲東渡烏江。烏江亭長
船待。
ここにおいて項王、すなわち東して烏江を渡らんと欲す。烏江の亭長、船をギして待つ。
謂項王曰、江東雖小、地方千里、衆數十萬人、亦足王也。
項王に謂いて曰く、「江東は小と雖も地は方千里、衆は数十万人あり、また王たるに足る。
願大王急渡。今獨臣有船。漢軍至、無以渡。
願わくは大王、急ぎ渡れ。今ひとり臣のみ船あり。漢軍至るとも、もって渡るなからん」
項王笑曰、天之亡我。我何渡爲。且籍與江東子弟八千人渡江而西。
項王笑いて曰く、「天のわれを亡ぼすなり。われなんぞ渡るをなさん。かつ籍は江東の子弟八千人と江を渡りて西せり。
今無一人還。縦江東父兄憐而王我、我何面目見之。
今、一人も還るものなし。たとい江東の父兄、憐みてわれを王とすとも、われ何の面目ありてかこれに見えん。
縦彼不言、籍獨不愧於心乎。
たといかれ言わずとも、籍、ひとり心に愧じざらんや」
乃謂亭長曰、吾知公長者。吾騎此馬五歳、所當無敵。
すなわち亭長に謂いて曰く、「われ公の長者なるを知る。われこの馬に騎すること五歳、あたるところ敵なし。
嘗一日行千里。不忍殺之。以賜公。
かつて一日に千里を行けり。これを殺すに忍びず。もって公に賜う」
項羽が川を渡ろうとしたら、船を準備していた亭長が「江東でまたやりましょう」と項羽を励ました。然し項羽は「天が俺を亡ぼすのだからやめにしよう。それに俺に従った江東の者もみんな死んだ。江東のみんなが俺を憐れで王にしてくれるとしても、どの面下げて会えばいいのか。誰も云わなくても俺は堪えられんよ」と云って、「お前はいい奴だ。俺はこの馬に乗って五年、無敵だった。かつては一日に千里を走ったものだ。殺すには忍びない。お前、貰ってくれよ」と愛馬騅を亭長に賜ったという。この直後に項羽は敵将王翳に「われ聞く、漢わが頭を千金邑萬戸に購うと。われなんじがために徳せん(漢は我が首に莫大な賞金をかけていると聞いている。ひとつお前に手柄をたてさせてやろう)」と云って自ら首を切って果てたのだが、王たることを諦め、面目を気にする項羽の様子は、ケンシロウに敗れて「このラオウ/もはや/拳王の名は/いらぬ!!」(JC:15:020)と天に吼え、フドウに敗れて「破れて/命を拾おうとは/思わぬわ!!」(JC:15:099)と部下を殴り、練気闘座で「もう 天など/どうでも/よい!」(JC:15:124)、「名もいらぬ/光もいらぬ」(JC:15:164)と名誉を捨て、「おれは/北斗の長兄/死にも誇りが/ある!!」(JC:16:024)と意地を張り、「見事だ/弟よ!!」(JC:16:034)とケンシロウを誉めるラオウ様と重なる。更に項羽の愛馬騅と同じく黒王号もケンシロウに譲られた。
ラオウ様は項羽
他にもラオウ様が幾多の敵を殺戮した他、無抵抗服従村長などの領民を殺したように、項羽も新安で秦兵二十万を虐殺し、落した城の住民を穴埋めにし、餘りに簡単に敵城が落ちたからといって敵兵が弱すぎると腹を立てて住民を皆殺しにしようとしたり、人を殺すことを厭わなかった。だからといって苛烈一辺倒でなく、時には部下や女子どもを慈しんだというから、これもシャチの頭を撫で、リュウを捨て得ず、バランに己と同じ甘さを見たラオウ様と通ずる。
項羽という人は知れば知る程天下の主に相応しいとは思えぬ人だったが、然し實に魅力に溢るる面白い人であったと思う。だからだろう、『史記』の著者司馬遷も「天がわれを亡ぼすのであって戦の罪ではないなんて、そんなアホな」と批判する割に『史記』の中で最も気を入れて「項羽本紀第七」を書いている。司馬遷が仕える王朝の敵だった人だから、建前で批判しなければならなんだのだろうが、「項羽本紀第七」は紛うことなく『史記』中最も優れた名文で、「お前項羽のこと好きだろう」と疑わざるを得ない。それに批判する前に先づ「この数百年で此程の人物は出なかった」などと誉めている。この司馬遷の項羽を描く筆が餘りに冴えていたものだから、ほらみろ、「項羽本紀第七」を元にした京劇『覇王別姫』(外部リンク)は今でも人気の演目であるし、『平家物語』の木曾義仲の最期も項羽の最期をそっくり写しているじゃないか*1。司馬遷が項羽を餘りに人に愛されるように書いたから、後世、劉邦を愛する者なんて殆ど居ないのに、項羽ファンは山ほどいる。多分間違いない。司馬遷は項羽が好きだった。
武御大は自衛隊を辞した後、暫く本宮ひろ志の事務所に転がり込んで、本宮の資料整理を手伝ったり麻雀を打ったりしたそうだが、その宿主であった本宮ひろ志は『週刊少年ジャンプ 1986年13号』から項羽と劉邦の戦いを描く『赤龍王』の連載をはじめた。この『赤龍王』第一話が載った『週刊少年ジャンプ 1986年13号』には『北斗の拳 第百二十三話 その時はきた!の巻』も載っている。ケンシロウが無想転生を初めて披露した回だ。これが関係するかどうかは断言出来ぬが、武御大だろうか、それとも堀江御大だろうか、どうも歴史を得手とする堀江御大が考えて、武御大が再構成したような気がするが、いずれにせよ、楚王項羽こそラオウ様のモデルではなかったか、と思う。少なくとも武御大は「ゴルゴダの丘に登るキリスト」のつもりでシュウの死を描いた人だ。ユリア殺害未遂の場面も何かのつもりで描いていたとするならば、どう考えても「垓下歌」がモデルである。原御大の世代なら判らぬが、あの世代の、然も文筆を生業とする堀江御大と武御大が、あの有名な「垓下歌」を知らぬわけはない。
だから断言しよう。ラオウ様は楚王項羽の後裔である。だからあれほどお強くあられた。だからあれほど苛烈であられた。だからあれほど人を殺したラオウ様をケンシロウは批判出来なかった。もし同時代に生きたならば、ラオウ様は迷惑この上ない御方だったかも知れぬが、その生き方は、後世の人を強く魅了する。故にラオウ様の真の友は後世の史家しかいない。それは覇王項羽より継いだ徳だったと思う。