北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
週刊コミックバンチ 2009 No.32


週刊コミックバンチ 2009 No.32

 『コンシェルジュ』はいつもドギツい諷刺ネタをやるけど、今回のコレはまたいつにも増してドギツいなぁ。

『蒼天の拳』

 前回からのこの史実とのリンクは一体なにを狙っての演出なんだろう。思うに空海も信長も次なるエピソードの為の前フリで、これじたいは別に重要ではないのでしょう。でないと此処で史実とリンクさせる意味が解らない。
 但しこのビジョンがあることで、劉宗武先生がヒトラーの寝所に忍び込んだことや、ケンシロウがラオウ様と戦うたことに対する解釈が微妙に変ってくるので、それを意図してのことかも知れない。このビジョンが描かれるまで北斗神拳伝承者は「英雄の死」を司っていたが(だから劉宗武先生はヒトラーを殺さず、ケンシロウはラオウ様やカイオウを殺す)、前世の拳志郎は英雄を殺そうとしない。寧ろ守護しようとしています、と申している。多分、暗殺や謀殺からの守護であって、戦死や病死からは一切守ってくれないのだろう、それで信長の死もスルーなのだろうが、「死」と「守護」では大きく違う。きっと『北斗の拳』と『蒼天の拳』でいう「英雄」は同じ「英雄」でも意味にズレがあるのだろうね。これについては次回以降にじっくり考えよう。

『義風堂々!! 直江兼続 前田慶次 月語り』

 儂は柴田勝家を「瓶割柴田」の逸話から古典的猛将として重厚な雰囲気でイメージしていたが、本作では単なる猪武者として使われており、残念、『銀河英雄伝説』なんかでもそうだが、旧世代の武人が醜く描かれがちな風潮は正直感心出来ない。我らは平家や木曾義仲、源義経、楠木正成、真田幸村などの敗者を美しく描いてきた日本人なんだから、餘り柴田のような敗者を戯画的に醜く描くのはよくないと思うんだ。
 それでも単行本弐巻以降の展開がやや冗長ながら、漸く物語が動き出しそうな感じなので、それは歓迎、然し謙信公病臥の件がナレーションで済まされたことも、少し残念、もっと印象的な演出が欲しかったなぁ。でも便所で倒れたっていうから、漫画にするには絵にならないし、避けざるを得なかったのかも。でも今までが冗長だった分、なんだか前回から急いでいるようにも見えてしもうていて、気がかり。

 処で今日、Amazonから参巻が届いたので読んだのだけど、バンチ掲載時は気付かなかったのだが、「父上は/この与六の/真の父か?」は實に佳い台詞だったんだね。バンチ掲載時に気付いてちゃんと誉めておくべきだった。
 だって与六は「真の父は樋口惣右衛門ではない」と聞かされて帰ったんだから、普通は「父上はこの与六の真の父ではないのか?」と書いてしまいがちじゃないか。それを「父上は/この与六の/真の父か?」と訊ねるんだよ? 「真の父ではないのか?」ではなく「真の父か?」である処に与六の惣右衛門に対する信頼が込められている。惣右衛門が嘘をつき通したいのなら仕方がない、という決意が覗いて見える。實に巧い。これが「真の父ではないのか?」だと惣右衛門より信長を信じたことになるし、惣右衛門が嘘を吐き通しても、痼りが残りそうだ。「真の父か?」だから、惣右衛門がどう答えようと、後でさっぱり出来る。このシーンは凄いよ。
 隆慶一郎の『一夢庵風流記』で密陽府使朴晋が「うちの弟に何をした」と訊ねたのに対して前田慶次郎が「うちの弟が何をした」と訊かなかったことに怒る件があるが(『花の慶次 ―雲のかなたに―』だと琉球篇にある)、この台詞はそれと関係があるのかも知れない。近頃は『NARUTO』程でなくても不自由な日本語を使う作家が多いものだから、たまにこういう佳い台詞を見ると物凄く感心してしまう。
 これが出来る作品だけに、上杉景虎や柴田勝家を凡庸な造形と演出で済ませていることが残念でならない。光る処があるだけに瑕が気になるのだ。

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