ここからが長い…
今ならまだ引き返せるわ

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
三篇相似


三篇相似

メモ*1 メモ*2 メモ*3 メモ*4

『北斗の拳』には似た話が幾つかある

 連載を終えて二十餘年を過ぎた今でも儂は『北斗の拳』を度々読返す。だが如何に『北斗の拳』が名作と雖ど第一話から最終話まで通して読むことは殆どなくなった。今は、例えば「天翔る天狼篇」を読んで、次は「カサンドラ篇」、その次は「ケンシロウ追憶篇」を読むという工合、好きな箇所を好きな時好きな順序で読んでいる。
 このような読み方が出来るのは、儂が『北斗の拳』の内容を殆ど憶えているからだ。流石に「某頁の某齣目の台詞は何だったか」などと問われると判らないが、物語としてなら未開地の原住民が部族の口承伝承を説くが如し、およそ精確に物語ることが出来る。特に我々連載当時を知る世代とって『北斗の拳』は学校の遠足や修学旅行のような想い出だ。それを凌ぐかも知れぬ。そうでなくとも幾百度となく読返した北斗istなら、当然粗筋くらい憶えている筈だ。こういう読者にとって、最早物語の順序は問題ではない。何処から読んでも同じだ。前篇後篇を記憶で補完出来る。好きな話を好きな順序で愉しめばよい。
 このようになった北斗istが『北斗の拳』について論じようとすると、どうしても細部の話をしてしまいがちだ。やれガイラスだ、やれモリだと、名があったのかと思うような人物の名を憶えていることを競い合う傾向にある。それは知識自慢という面があり、北斗istたる己の確認作業でもあり、實にマニア的*5で、實に愉しい。儂もインターネットを初めて四年くらいは、やれザク様だ、やれヌメリだ、やれブゾリだ、やれクジン様だ、ヒフーン、とそればかりして遊んでいた。
 だが、ある時何となく「ジュウケイ無惨篇」「女神の涙篇」「修羅の国決着篇」を通して読んで、奇妙なことに気付いた。この三篇で描かれたカイオウにまつわる故事、つまり「カイオウ故事」が、どうも「ジャギ篇」「聖帝サウザー篇」に似ているのだ。
 「カイオウ故事」は『北斗の拳』の数ある逸話の中でも餘り好まれているとは云えない。多くの北斗istはカイオウをラオウ様の贋者と見なし、人によってはラオウ様の劣化コピーとまで謂う。殆ど酷評と云える。だがよく読んでみると「カイオウ故事」は餘り「ラオウ様故事」と似ていない。似た要素が餘りない。寧ろキーワードを拾うてみると「ジャギ篇」「聖帝サウザー篇」と似た語句が多い。
 では念の為に三篇の粗筋を記してこの三篇の相似を確認しよう。
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aside

*1
2005/12/13.全文改訂
*2
2006/03/16.加筆修正
*3
2006/09/03.全文改訂
*4
2006/10/03.加筆修正
*5
 オタクという云い方が一般的なのだろうが、ここは敢てマニアとした。マニアとオタクを何処で分けるかについては諸説あるが、儂は性欲を伴って没頭する者を"オタク"、伴わない者を"マニア"としている。
 岡田斗司夫や唐沢俊一の世代のオタクは性欲を伴っていなかったように見えるが、原初のオタクである"SFファン"や"ファンタジーファン"について調べてみると、どうも性欲を伴っていたらしい。SFにつきもののグラマラスな金髪美女がその対象だったのではないかと考えられる。
 オタクに対する世間の嫌悪感は詰まるところ性欲に対するものだ。"萌え"という新概念を編出して性欲臭を打ち消そうとしているが、"萌え"も所詮性欲に過ぎない。"メイドカフェ"なるものも結局は淡い風俗なのだ。直接的な性に対する恐怖心がああいうものを生みだすのだろうが、言葉を別にしても本質は"性欲"に過ぎず、そういうものを隠そうとする行為もまた、世間が持つ嫌悪感に繋がっている。
 『北斗の拳』の愛好はおよそ性欲を伴わない。たまにはいるみたいだが、原哲夫御大の絵が性欲を喚起し憎い為、例え具体的な性を描いたとしても、性欲を喚起する描写にはなり憎い。故に北斗istの殆どは北斗"マニア"であって"オタク"ではないと云える。

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