俳優の北斗学さんとは関係ないわ!

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
北斗学
- Hokutorogy -

 『北斗の拳』のテキスト論的解読を行っています。


三十一篇全比較 31.ケンシロウ追憶篇 237-245話(全09話)

 少し照れ臭いが、儂は本篇が好きだ。『北斗の拳』の最終章がこういう話で本当に良かった。これ以上ないくらい完璧な最終回であると思う。こんな最終回を迎えられた『北斗の拳』は本当に幸福であったし、そんな物語を愛することが出来た我々も倖せであった。漫画に名作数あれど、最終回に限っては『北斗の拳』くらい佳い最終回を迎えられた作品はなかなかない。それだけにこの最終回が餘り世間でよく知られていないのは、まことに惜しいことである。だが、概して名作ほど最終回が知られていないもので、故にこれも『北斗の拳』が名作である証といえなくもない。

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三十一篇全比較 30.光帝バラン篇 228-236話(全09話)

 儂は権威主義者である。個人の力よりも権威の方が遙かに強いと固く信じている。よく「自分の言葉で語れ」なんて云う人がいるが、馬鹿云っちゃいけない、世間が如何に学者と医者に弱いことか、知らない人はおるまい。俗流とはいえこれだけ民主主義が猖獗を極める本朝に於いて、未だに「北条家の子孫」だの「冷泉家の後裔」だのという家名にも平伏す人は多い。権威者を敵視する左の人だってマルクスだ毛主席だサルトルだと権威に縋るのだから、権威は大事である。権威を無視して生きられる人は居ない。だから「誰々曰く」と着けられるなら着けておくに越したことはない。借りられる権威は借りられるだけ借りるとよいと儂は信じている。

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三十一篇全比較 29.サヴァ王国篇 218-227話(全10話)

 断言は出来ないが、本篇はシェイクスピアの『リア王』*1、もしくは黒澤明の『乱』*2の翻案だ。年代からして1985年公開の『乱』の方を参考にしたと思われる。特に最後カイが死ぬ件は『リア王』より『乱』に似ている。
 だが、本篇では長兄カイが死んでいる。『リア王』では最後に末娘コーディリアが、『乱』では末弟三郎が死ぬ。この差異は何だろうか。多分これは本篇を悲劇にしない為だ。
 初めカイ・ブコウ・サトラは典型的な"三馬鹿王子"として登場し、延々と醜態を曝すが、ケンシロウに力の差を見せつけられて以降は改心し、お互い譲り合うことを憶えた。そうなった以上、此処で『リア王』『乱』同様にサトラが死んでしもうては、幾ら何でも悲劇に過ぎる。『リア王』『乱』は悲劇だからそれで構わないが、『北斗の拳』は少年漫画だ。未来に希望を託さねばならない。
 兄弟の中で真先に譲ることを憶えたのはサトラだった。次いでブコウが目覚めている。常識的に兄弟間でのプライオリティ(優先権)は兄にある筈だ。弟が兄に優越しようなどとは抑も弟の思い上がりに過ぎない。だから最も思い上がっていたサトラが一番に改心し、次いでブコウが改心するという順序は、至極当然の成行きである。
 この三兄弟で最も罪が少いのは長兄カイだ。思い上がった弟たちを諭すことが出来なかったに過ぎない。だからサトラとブコウが正しい弟として振舞えば、カイは正しい兄に立戻る。サトラとブコウが改心した結果、カイは「まってくれ!!」「たのむ!!」「オレたちが/井の中の蛙で/あること/よーくわかった」「たとえ三人でも/あんたには/かなうまい!」「な……/ならば/願わくば」「こ……/この命で/そのふたりを/見逃して/やってくれ!!」(JC:25:192-193)と命乞いをしてみせた。實に兄らしい振舞いと云える。カイはもともとこういう兄だったのだ。
 およそ兄弟とは弟が兄に先を譲り兄が弟に後を譲る状態こそ正しい。少なくとも儒教の影響下にある文化圏ではそういうことになっている。「兄のおさがりを弟は/着ることができる」「だが弟の服は/兄では着れぬ」(JC:26:046)とは将にそのことだ。ならば、アサムが既に死の際にあり、兄弟の中からもう一人死なねばならないのであれば、それはカイ以外であってはなるまい。兄は後を譲る弟がいてこそ安心して死ねるのだ。カイであれば、カイより後事を譲られることでブコウとサトラは"立派だった兄の弟"として誇りを胸に強く生きてゆくことが出来よう。だが、假にこの時サトラが死んだならば、例えどんな立派な死に方であろうと、「弟の服は/兄では着れぬ」。カイとブコウはサトラの死を悔むしかない。これは悲劇だ。少年漫画は少年に未来の希望を託するものだ。どんなに芸術的に美しく仕上がろうと、どんなに思想的に高等に仕上がろうと、決して悲劇であってはならない。
 思うに、本篇は曾て兄弟間で競い助け合うことが出来なかったケンシロウの罪滅ぼしである。ラオウ様にも北斗神拳を継ぐ資格があることを、ケンシロウはラオウ様が御帰天召された後になって気付いた。それを、若さ故に競い合うことしか出来なかったケンシロウは、悔いていたのではあるまいか。だからアサムに「三人の後継者たちを/抹殺してくだされ!!」(JC:25:103)と依頼されながら、脅かすだけに留めたのではないか。「父の愛に/溺れ」「その父の愛を/忘れ盲目となった/クズども!!」(JC:25:181)とは自責の言葉ではないか。サヴァの啀み合う兄弟に、ケンシロウは己の過去を見たのではあるまいか。

 猶、カイは『リア王』のコーディリア、『乱』の一文字三郎の役割を次いで死んでいるわけだが、だからといってカイがコーディリア乃至三郎の全ての機能を引受けているというわけでもない。一部はきちんと末弟サトラが引受けている。ブリテン王家を勘当されたコーディリアがフランス王妃になり、一文字家から追放された三郎が藤巻家の婿になったように、サトラも婚約者であるブランカ王女ルセリを娶るべくブコウに王位を譲って旅に出ているのだ。つまり、コーディリアと三郎にあった婚姻関係は次篇の切掛として流用されている。『リア王』乃至『乱』を知らねば読者にとっては別にどうということはないことだが、知っていると武御大は實に凄いことをやっているのである。我ら北斗istはこういうことを讃えねばならない。

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aside

*1
 シェイクスピア作の悲劇で、だいたい以下のような話。
 ブリテン王リアには三人の娘が居た。長女ゴネリル、次女リーガン、末娘コーディリアである。高齢のリア王は退位するにあたり「誰が一番孝行娘か」と三人娘に問うた。ゴネリルとリーガンは父への忠孝を誓う。然しコーディリアの答えは誠実ながら正直すぎた。憐れコーディリアは勘気を被り勘当されてしまう。
 処が忠孝を誓うたゴネリルとリーガンに後を譲ったリア王も、次第に疎ましがられるようになり、竟には追出されてしまい、荒野を流離う内に気が違ってしまう。
 一方、フランスに渡って王妃になっていたコーディリアは父リア王の惨状を知って救わんと欲し、兵を起しブリテンを攻め、戦場のテントでリア王と再会し、リア王は正気を取戻す。然しフランス軍は反目しつつも連合するゴネリルとリーガンの軍に敗れ、捕虜になったコーディリアは処刑され、リア王は息絶えたコーディリアを抱いて失意の内に死ぬ。
*2
 1985年公開の黒澤明監督映画。『リア王』の世界を時代劇に置換えた内容で、粗筋は同じ、ブリテンを一文字家(架空の戦国大名)、フランスを藤巻家、リア王を一文字秀虎、ゴネリルを太郎孝虎、リーガンを次郎正虎、コーディリアを三郎直虎と読替えればそのまま。
 因みに古い映画ファンは「儲け主義に走った俗悪な作品」と忌嫌うが、そんな云われ方をするほど酷い作品ではない。寧ろ佳い映画だ。多分、白黒で育った世代の人々にはカラー作品の映像美が理解出来なかったのだろう。ただ、これ以降邦画の主流が「映像美の追求」に走ってしもうたが為、その口火を切ったという意味では罪作りだ。映像美を追求した映画ってほんとに面白くないからね。

三十一篇全比較 28.狼は死なず篇 211-217話(全07話)

 儂が本篇を構造的に面白いと思うのは、リュウの造形もさることながら、コウケツという敵役のあり方だ。というのも、一見するとコウケツはジャコウに類する類型的な俗物に過ぎないが、なかなかどうして面白い特徴を具えている。

 先づコウケツは農場の主である。そして曾て広野を駆巡った狼たち…即ち落魄した拳王軍の残党の子供たちを人質に取り、農奴として扱き使うている。男の癖に戦いを避け、媚びを売って出世を計ったことをラオウ様に見抜かれて大恥をかいたどうしようもない下衆である。
 このコウケツの特徴は、一見してみるとよくある小悪党のステロタイプのようであるが、具に吟味してみると、實はマミヤの影であることが判る。マミヤは花や穀物が実る豊かな村のリーダーであり、荒野を横行する狼たち…即ち牙一族に村を狙われ、トヨの養子たちを引取ることを条件にケンシロウを雇い入れ、牙一族に対抗しようとしている。女を捨てて戦いに身を投じながら、レイに服を破られた際に胸を隠したことで女であることを再認識させられた。つまり、ともに農場の主であり、どちらも「狼」と呼ばれる集団に対抗する為に子供を養い、性別に反する行いをし、それ故に恥をかいている、という特徴が一致しているのだ。
 勿論武御大と原御大がそんなことを意識して描いたとは思えない。多分、コウケツという下衆を造形する際に"穢らわしい特徴"を附加していったら、、無意識にマミヤと正反対のキャラクタが出来た、というだけであろう。抑もマミヤは半ば女神と化したユリアと違い、生き身の女としては実在し得る限界まで理想化された"美人"だ。実在し得る最低の"下衆"を考えれば、マミヤの正反対になるのが道理である。だから偶然といえば偶然だろう。「農場」と「狼」の一致も「狼」を「暴力の荒野」の象徴として考えれば「農地」と「荒野」の対立として容易く理解出来よう。

 もうひとつ、コウケツは子供を人質にとってバルガらを農奴にしていたが、この子供らを代表するシンゴはどういうわけか盲目である*1。処が『北斗の拳』には幾人も盲目のキャラクタがおり、これらを比較すると、『北斗の拳』に登場する盲目のキャラクタには明確な役割があることが判る。それは"人質"若しくは"自己犠牲"の暗示である。アイリ、シュウ、ルイ、赤鯱、シャチ、シンゴ、ボルゲ、何れも"人質"若しくは"自己犠牲"に関わっている*2
 シンゴを人質に取ることでコウケツは労働力を得ていた。この構図は同じく子供を捕えることで労働力を得ていたサウザーと同じで、コウケツを"卑小なサウザー"と見なした場合、シンゴは"縮んだシュウ"であることになる。そう思うて見れば、成程コウケツもサウザーもオールバックで、恐らくは銀髪、どちらも豪華な食事を採るシーンもあり、似ていないではない。
 コウケツが"卑小なサウザー"であるならば、"縮んだシュウ"であるシンゴは「みなも/聞くがよい/今動く/ことはない」「おまえたちの/中にある/心が動いただけで/充分だ」「その心が いずれ/この世に再び/光をもたらす/であろう」「心ひとつひとつが/大きな束と/なった時に」(JC:11:059)というシュウの預言の成就を暗示する存在ではないか。
 もし本篇が預言成就の物語であったとすると、「みごとだ/シュウ!!」(JC:11:095)とシュウの死を讃えたラオウ様の御子息がシュウの預言を成就させたのだ。何やら壮大である。

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aside

*1
 勿論作中できちんと「極度の栄養不良の/ために盲目となった」(JC:24:161)と記述があるが、そういうことが判らないわけではない。作劇上どういう理由があって武御大はシンゴを盲目にしたのか、という意味である。
*2
 シュウは人質を取られ自己を犠牲にした。対するルイは人質になってファルコが自己を犠牲にしていた。ボルゲはバットがケンシロウの身代りになることで自己を犠牲にしていた。何れの場合も"人質""自己犠牲"に"関わる"が、甲乙の関係は決して固定されていないので"関わる"としか表現出来ない。

三十一篇全比較 27.修羅の国決着篇 200-210話(全11話)

 初めに述べたように、カイオウは設定こそラオウ様の兄であるが、その人物造形は寧ろジャギ、サウザーに近く、ラオウ様に似た要素といえば、精々容貌と背格好、あとは膨大な闘気の量、従順な愛馬くらいで、人柄に至っては全くの正反対、ラオウ様とは似ても似つかぬ男である。カイオウは、ジャギがケンシロウを憎み陥れんとしたが如く北斗宗家を憎んで策謀を弄び、サウザーが師父オウガイの死を乗越えられず墳墓を造り悪逆の聖帝と成果てたが如く母者の死を悼む餘りに墓所を造立し悪の権化と成果てた。天を目指し弟たちに敬愛されるに足る最強者たらんと欲したラオウ様の兄とは思えぬいじけにいじけ抜いた生涯であった。そのいじけ抜いた人柄は殆ど餓鬼と同じ、成熟には程遠い幼児性を抱えた小人物であった。
 とはいえ、勿論カイオウとて「新世紀創造主」たらんと志した英傑の一人である。優れた器量を具えた人物であったことは間違いない。だが所詮は白痴のデミウルゴスである。修羅の国などという不完全な世界しか創造出来なかったことでそれは明らかだ。修羅たちには全知全能のように見えたかも知れぬが、到底「新世紀創造主」などとはとても云えぬ昏君だった。カイオウにもそれなりの理想があったのやも知れぬが、所詮は出来の悪いイデアの模造品しか創造出来ぬデミウルゴス、女の愛に生きた男たちに滅ぼされた仕儀も当然の成行きという他ない*1

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aside

*1
 キリスト教の異端であるグノーシス派の始祖的魔術師シモンはへレナという女を常に連れていた。キリスト教の資料に拠るとへレナはシモンが身請けした娼婦だったそうだが、シモンの信者はへレナを「エンノイア=第一思考の流出」と呼んで崇めていたそうだ。何でも、へレナは元来全人類の母であり、天使の創造主でもあったが、へレナの力を妬んだ天使によって物質的肉体に幽閉しされていたのだという。それが、幾度もの転生を経て、娼婦に生まれた結果、救世主シモンによって発見され、解放されたのだそうだ。へレナを幽閉した天使たちは世界を支配する為に敢て悪く治め、その長は『旧約聖書』の神と同じ、つまりデミウルゴスであるという。
 つまり魔術師シモンはへレナにぞっこんで、へレナを世界の全てのように崇めていたわけだ。そして悪が蔓延るこの世の出来を恨み、その主催者とされる『旧約聖書』の神を「腕の悪い職人」と呼んで罵っていた、という話である。即ち魔術師シモンは女の愛に生きた男、というわけである。

三十一篇全比較 26.女神の涙篇 197-199話(全03話)

 今回は短い。僅か三話だ。一度は分割しないで「修羅の国決着篇」の冒頭扱いでもいいかと思うたが、どうにもしっくりしないので、僅か三話ながら一篇とした。

 然し本篇は感動的な話ながら短い故か描写が不確かで筋を追い憎い。先づ泰聖殿には「ケンシロウに/伝えられるべき/秘拳があるという」。「だがその拳を/封じられた場所は/ヒョウしか知ら/されていない…」(JC:22:178)のだそうだ。ならどうしてシャチはヒョウを置いて泰聖殿に向ったのだろうか。
 シャチは「あんたたちは/待っていてくれ/今すぐ助けを/よこす!!」(JC:22:174)と宣うたが、泰聖殿は廃墟で、人など居なかった。そのことはヒョウも初めから知っていただろう。羅将であるヒョウが知らぬわけはない。故にシャチは先に「助け」を呼んでから泰聖殿に向うたと考えられる。事実シャチはヒョウの許に「助け」を四人ばかり寄越したようだ。黒夜叉と語ろうヒョウの後に敵とは思えぬ男たちが確かに描かれている(JC:23:087)。"羅刹"として修羅を殺し回るシャチに同心した仲間であろうか。それは兎も角、この連中にヒョウを連れてこさせるつもりだったであろうことは判る。
 だが、それでは、ヒョウを伴わず先に泰聖殿に着いたシャチは、泰聖殿で何をして待つつもりだったのだろう。「拳を/封じられた場所は/ヒョウにしか知ら/されていない」のなら、ヒョウが居ないことにはどうにもならないではないか。

 だが、よくよく読んでみると、必ずしもシャチが先に泰聖殿に向うことはなかったが、先に向うたこと自体にはシャチなりの考えがあり、意味があったことが判る。
 レイアは泰聖殿のことを知らなかったようだが、流石に北斗琉拳を学んだだけあって、シャチは以前より泰聖殿を知っていたようだ。泰聖殿に着いた時に初めて来たとは思えぬ口振りで「ここが北斗宗家の/泰聖殿!!」と云うている(JC:22:177)。ジュウケイに連れられて来たことがあったのだろう。だから泰聖殿が今は廃墟であることも知っていたに違いない。
 其処にカイオウが待っていた。作中には描かれなかったが、シャチが泰聖殿に向うているようだと報告があって、先回りしたのだろう。シャチがヒョウに「助け」を寄越している間にカイオウが先に着いたのだ。シャチにしてもまさかカイオウが来ているとは思わないまでも、敵がいる可能性は考えていたようで、泰聖殿の門前で警戒はしていた(JC:22:178)。羅聖殿を出てから暫くカイオウの部下が差し向けた兵を殺しながら負傷したヒョウを伴うてノロノロ歩き、その後別れてヒョウに「助け」を寄越す手配を済ませ、それから泰聖殿に向うたのだから、その間に敵がこちらの動向を察し泰聖殿で待伏せているくらいのことは当然考えていただろうから、これは当然の心得だ。ましてやシャチは修羅を闇討ちする"羅刹"だったのだ。考えないわけがない。
 ということは、シャチがヒョウより先に泰聖殿に向うたのは、露払いの為ではなかったか、と思う。カイゼルを殺し、ハンが斃され、ヒョウが敵でなくなった今、最早シャチが怖れねばならない修羅はカイオウしかいない。勿論シャチがゼブラより強く、ヌメリが修羅ではないと假定せねばならぬが、それでもシャチが大概の修羅より強いことは確かで、待伏せていた敵がカイオウでさえなければおめおめと負けはしない。だからケンシロウもヒョウも黒夜叉もシャチを止めず、着いていこうとするレイアを宥めもしなかった。相手がカイオウでさえなければ、レイアを守りながらでも充分戦えると信じていたのだ。
 ケンシロウがシャチに着いていかなかったのは、ヒョウと黒夜叉が怪我人であった為だろう。またケンシロウが先に行かなかったのは、ケンシロウが修羅の国の地理に疎い為だ。あの場で自由に動けて修羅の国の地理に詳しい者はシャチしかおらず、シャチなら充分露払いの役に立つから、シャチは先に泰聖殿に向うたのである。ただ、待っていた敵がカイオウであったことが、シャチの……、否、レイアの不運であった。

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三十一篇全比較 25.魔神ヒョウ篇 188-196話(全9話)

 「堕ちた天使篇」は悪人に変ったと聞かされていた義兄トキが實は偽者であったというお話だったが、この「魔神ヒョウ篇」は存在を知らずにいた善人である筈の実兄ヒョウが魔道に堕ちてしまうお話で、「懐かしい兄」が「知らない兄」、「外道を演じた偽者」が「魔道に堕ちた本人」、「義兄」が「実兄」という工合に顛倒、見事なシンメトリになっている。同時に「囚われの義兄トキ」が「悪に染まった実兄ヒョウ」、「沙漠のまんなかのカサンドラ」が「沼に沈んだ羅聖殿」、「挑戦者の墓碑」が「虐げられた北斗琉拳の墓碑」、「兄弟の再会を肉体を以て妨げるウイグル獄長」が「兄弟の再会を策謀を以て妨げるカイオウ」、「命を捨ててトキ救出を助けて死んだライガとフウガ」が「ヒョウを貫いた罪を贖わんとするも生き存えたシャチ」という工合に、「カサンドラ篇」とも裏返しになっている。
 このことから、儂は「修羅の国」とは結局大規模な「カサンドラ」だったのではないか、大型の「カサンドラ」がジャギもアミバもサウザーをも内包する恰好で成立する世界が「修羅の国」だったのではないか、或いは「修羅の国」は『北斗の拳』の世界観そのものが「カサンドラ」を中心に反転した『裏北斗の拳』のお話だったのではないか、などと考えるのだが、これについては後でまた詳しく論証するとしよう。

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三十一篇全比較 24.ジュウケイ無残篇 178-187話(全10話)

メモ*1 メモ*2

 これはジュウケイが悪い。ジュウケイは秘拳なくばケンシロウがカイオウに勝つことはないと考えていた。まぁ、羅聖殿の戦いと母者の墓所での戦いを見る限り、流石にケンシロウは天才である。秘拳なしでもカイオウに勝てたように思われるが、然しジュウケイも一廉の武術家である。自らの知識に基づいてそう考えたのだから仕方がない。だが、であるならば、どうして言伝を頼んだレイアとタオにそれを教えなかったのか。そのことも伝えておれば、レイアからそれを聞いたシャチがよきよう計ろうた筈である。喩えリンを奪われたからとはいえ、ケンシロウをカイオウの許へ連れて行くことはなかった。ケンシロウを絶体絶命の危機に陥らせることはなかった。
 レイアは可愛い女だと思う。ジュウケイに頼まれた言伝だけをシャチに伝え、リンが攫われたと慌ててシャチに伝え、ケンシロウがカイオウの許に向ったとジュウケイに伝えた。己の思慮らしいことは何もないが、懸命に己が出来ることをしている。まさかジュウケイが馬鹿だなんて露程にも考えていない。ジュウケイを信じ切っている。
 そう、ジュウケイは馬鹿なのだ。今際に「ゆ…許せ…/この/大馬鹿者を!!」(JC:21:125)といって事切れたが、その通りである。ジュウケイは大馬鹿だ。多分ケンシロウは秘拳がなくてもカイオウを倒せたであろうし、その秘拳の正体も実戦での力を失うた死んだ拳に過ぎず、その在処を知るヒョウの記憶を封じてしまうし、北斗琉拳を仕込んだ弟子は悉く悪者に成下がっている。ジュウケイの一挙手一投足の全てが事態を悪化させ、ケンシロウに………引いては天下に迷惑を掛けた。こんな愚か者が要らぬ細工をするから、カイオウ如き小悪党に付け入られるのだ。全く、リハクはまだ庇いようがあるが、ジュウケイばかりはどうにも庇いようがない。
 抑も修羅の国にはカイオウ以外賢い奴がいない。カイオウにしても大したことはないのだが、それでも流石に拳王様の兄上だ。並より下ではない。それに比べると、ヒョウにしても、シャチにしても、愚かである。ジュウケイはその代表に過ぎない。
 だが、ヒョウは馬鹿だが善良であるし、シャチは迂闊だが若々しく、レイアも世間知らずだが健気で可愛らしい。ジュウケイにしたって、その愚かさが突抜けて滑稽に転じ、その様が憐れげで嫌いにはなれない。寧ろ愛嬌がある。故に儂は却って修羅の国の愚か者たちに心惹かれるのであるが、よくよく考えてみると、その愚かしさ、滑稽さ、可愛げ、哀しさといったものは、拳王様御帰天以前には、シンや大佐、ジャッカル、ジャギ、アミバ、ウイグル獄長、ラオウ様、サウザーなどの敵役のものだった。それに比べると、拳王様御帰天以後の敵役はジャコウを最後に餘り愚かでもなく可愛くもない。ハン、カイオウは勿論、コウケツ、バラン、ボルゲにしても、愚かとは云い難く、ボルゲ以外は決して可愛らしくはない。特にバランは気色悪いくらいで、シエやギョウコなどの雑魚どもも単なる異形に過ぎず、馬鹿、愚かとは云えなかった。
 その替り、拳王様御帰天以後は援助者がどいつもこいつも馬鹿で滑稽だ。ファルコ、シャチ、レイア、ジュウケイ、黒夜叉、ヒョウ、バルガ、アサム、バット……何れも良かれと思うてやったことが全て裏目裏目に出る。拳王様御帰天以前の援助者、レイ、マミヤ、シュウ、フドウなどと比べてみるとよく解る。レイやマミヤ、シュウなどは例え目論見が外れてもケンシロウに迷惑を掛けなかった。寧ろケンシロウを助けることが多かった。
 『北斗の拳』は週刊連載作品故、餘り急激に質が変るということはないが、それでも拳王様御帰天を境に明らかに変質している。その極端な例のひとつが敵と味方の知能である。拳王様御帰天を境に愚かな敵役が利口に、善き援助者が邪魔者になっている。どうやら『北斗の拳』世界では敵と味方の知能が反比例するらしい。何故だろう。多分、ケンシロウが余人の助けなど必要ないくらい強くなっているからだと思うが…。

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aside

*1
2007,06/19.修正
*2
2007,06/26.修正

三十一篇全比較 23.第三の羅将ハン篇 171-177話(全07話)

 「修羅の国入国篇」「シャチ野望篇」「第三の羅将ハン篇」「ジュウケイ無惨篇」「魔神ヒョウ篇」「修羅の国決着篇」の七篇から成る修羅の国故事はこの「第三の羅将ハン篇」が随一面白い。先づレイアとシャチの心理描写の素晴らしさ、そして格好良過ぎる羅将ハン様、更に甦る我らがラオウ伝説に伴う昂揚感、その上ケンシロウの出生まで明らかになるなんて、『北斗の拳』史上これほど盛沢山の一篇が他にあっただろうか。修羅の国故事の面白さは殆ど本篇ひとつに支えられているというても過言ではない。『北斗の拳』全体を見渡しても、これほど面白い一篇は「カサンドラ篇」くらいしかなかった。拳王様御帰天以降は蛇足、という者もあるが、儂はアインやハーン兄弟、シャチ、ハン、アサムが居る拳王様御帰天以降も大好きだ。ヒョウとカイオウの魅力乏しきを惜しむ心もあるが。

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三十一篇全比較 22.シャチ野望篇 165-170話(全06話)

 本篇は曾て愛し相うたシャチとレイアが対立する様を描いており、これは『北斗の拳』ではこれまでなかった珍しい趣向である。然もこの二人が酷く未熟、甘チャンのケンシロウから見ても青臭いったらない。大きな野望を抱く割にシャチの腕はまだまだ拙く、愛を説くレイアは己がケンシロウにシャチを殺して欲しいと頼む意味を理解出来ていない。この未熟な二人の対立は、いうなれば痴話喧嘩だ。然も中高生程度の痴話喧嘩…即ち恋愛である。故にケンシロウは次篇、レイアに曰ふ。「まだ/捨てることは/ない……」「生きてさえいれば/また拾えよう」(JC:20:024-025)。本篇はケンシロウがそう云うに至る未熟な痴話喧嘩を描いている。

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