『真救世主伝説北斗の拳
ラオウ伝 殉愛の章』
でも讃美歌っぽい
BGMだったよね

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
聖帝十字陵のイエス 前篇


聖帝十字陵のイエス 前篇

メモ*1 メモ*2

武論尊斯く語りき

 武御大は幾つかの資料で同じことを仰有っているのだが、例えば『北斗の拳2000 究極解説書PART2』にはこうある。

――印象に残ってるシーンはありますか…?
堀 聖帝十字陵の、シュウの話は好きだったなあ。
武 あれは、堀江さんと一緒に「これはゴルゴダの丘だぜ!」とか言って書いてたな。

 「ゴルゴダの丘」とはナザレのイエスが磔刑に処された刑場の名で、正しくはゴルゴタGolgothaと発音する。つまり最後の「タ」は濁らない。ラテン語では「カルワリオCalvaria」、英語では「カルヴァリーCalvary」と謂うが、何れにしても「髑髏」を意味する名で、正確な場所は最早判らぬのだが、伝承に拠ると、コンスタンティヌス一世の母フラウィア・ユリア・ヘレナが西暦326年にエルサレムを訪れた際、当時ヴィーナス神殿があった場所をゴルゴタであるとして神殿を破壊し聖堂を建てさせたという。この聖堂の他、イエスの聖骸に香油を塗った地、イエスが埋葬された地にも聖堂が建てられ、これが十字軍の頃にひとつの屋根でまとめられ、現在の聖墳墓教会になった。勿論イエスが昇天して三百年近くも経った後に推定された為、当然異説がある。
 それはさておき、つまり武御大は「聖碑を負うて聖帝十字陵を登るシュウは十字架を背負うてゴルゴタの丘を登るイエスである」と仰有っていたわけだが、あなたがキリシタンならば、或いはお気付きかも知れぬ。實はこの「シュウの死」が意外と『新約聖書』の同箇所を正確に写している。勿論『北斗の拳』はキリスト経典ではないので、その意味も配置も決して『新約聖書』とは一致しないが、この感動的な「シュウの死」は明らかにイエスの立派さを借用しており、武御大と堀江御大はその為の手間を惜しまなかった。恐らく武御大と堀江御大はきちんと『新約聖書』を読んで「シュウの死」を描いている。北斗istならこの両御大の努力をも舐め尽し骨も残さず愉しまねばなるまい。
続き

救世主シュウ

 然し「シュウの死」と「イエスの死」を比較するのはなかなか難しい。というのも、イエスの死を記すテキストは『新約聖書』たった一冊でよいのに、その『新約聖書』の中にイエスの生涯を記した記録が四つも収録されているからだ。即ち「マタイ福音書」「マルコ福音書」「ルカ福音書」「ヨハネ福音書」である。この四福音書は著者がそれぞれ違う為、同じ事件を記していても、それぞれ書きようが違うたり、順序が違うたり、時に矛楯したり、あちらにはない記述がこちらにはあったり或いはなかったりと随分厄介な書物なのだ。然も「シュウの死」と「イエスの死」は立場の顛倒や人物の配置換えがある爲、単純に一対一応で比較出来ない。
 だが本稿の主旨は武御大と堀江御大が如何にして「シュウの死」を描いたか、ということなので、『新約聖書』のテキストを聖書学的に正しく吟味する必要はなかろう。両御大が『新約聖書』の何処を引いて「シュウの死」を描いたかが判ればよいのだから、『新約聖書』の記述を"明らかな誤りでない程度"に知っておけば、当時の両御大の思考にある程度近づける筈だ。
 というわけで、以下、「シュウの死」と「イエスの死」を比較するにあたって、先づ「明らかにイエスの死を写した描写」について論じ、「もしかするとイエスの死から引いたかも知れぬ描写」について論じることにする。両御大が「其処はそのつもりはなかったんだけど」という程度に細かく論じるくらいのつもりであれば、過ぎはしても不足はしまい。少し過ぎる程度に穿つ。

シュウとイエスの違い

 但し前もって示しておかねばならぬことがある。シュウとイエスの違いについてだ。抑もナザレのイエスは味方である筈のユダヤ人によってローマに引き渡され、ユダヤ人の支持によって殺された。イエスがユダヤ人に殺されたのは、古い律法に縛られたユダヤ教を改革せんと独自の律法解釈を流布し、それがある程度ユダヤ人の支持を得た爲、保守派の律法学者に危険視されたことと、もうひとつ、イエスの支持者も多くはローマ帝国からユダヤ人を独立させる民族的救世主としてイエスに期待を寄せたのに、イエス自らがそれを否定した為である。だから罪を裁く筈のローマ帝国第五代ユダヤ属州総督ポンティウス・ピラトゥス、所謂ピラト総督はイエスに罪を見出せぬ爲、ユダヤ人を程々に宥めてイエスの命を救おうとしたのだが、ユダヤ人はイエスを許さず、処刑を要求、ピラトは仕方なく十字架に掛けた。
 この経緯はシュウが死に至る経緯と全く似ていない。強いて云えば同じ南斗六聖拳のサウザー…つまり同胞に殺されたくらいだ。だがそうなるとピラト役にあたるサウザーはシュウを助けようとするどころか、自らシュウを殺しているし、シュウの支持者もシュウに失望などせず、寧ろ幼いレムがサウザーの腿を指す程にシュウを愛し慕うていた。このことから、武御大は飽くまでもイエスの死の描写を『新約聖書』から借りただけであって、決してシュウそのものをナザレのイエスとして描いていたわけではないと判る。同じ場面に至ってもその経緯が違えば同じとは云えないのだ。飽くまでシュウとイエスは別人である。

明らかに写した描写

 然しそれでも死に至るシュウはゴルゴタの丘を登るイエスとして描かれた。これは御本人の発言だから疑いようがない。では武御大は『新約聖書』の何処を借りてシュウの死を描いたのであろうか。
 明らかに意図して真似た描写は儂が数えた限り四つある。即ち、


  1. シュウが鞭で打たれる。
  2. 聖碑を負わされ聖帝十字陵を登る。
  3. リゾが繃帯を巻きたいと願う。
  4. 槍で腹を刺される。

 これは『新約聖書』の記述にある


  1. イエスが鞭で打たれ、兵士に侮辱される。
  2. 十字架を背負わされてゴルゴタの丘を登る。
  3. 罪人たちにも責められるイエスをひとりの罪人が庇う。
  4. イエスがローマ兵に脇腹を刺される。

 と対応している。

北斗:シュウが鞭で打たれる。
聖書:イエスが鞭で打たれ兵士に侮辱される。

マタイによる福音書 第27章26節
 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるため引きわたした。

マルコによる福音書 第15章15節
 それで、ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。

ルカによる福音書 第23章22節
 ピラトは三度目に彼らにむかって言った、「では、この人は、いったい、どんな悪事をしたのか。彼には死に当る罪は全くみとめられなかった。だから、むち打ってから彼をゆるしてやることにしよう」。

ヨハネによる福音書 第19章01節
 そこでピラトは、イエスを捕らえ、むち打たせた。

 このイエスが鞭で打たれる描写は「ルカによる福音書」を除く三福音書にあり、また「ルカによる福音書」にも鞭打ちに関する発言があり、先だって「人の子は異邦人に引きわたされ、あざけられ、はずかしめを受け、つばきをかれられ、また、むち打たれてから、ついに殺され、そして三日目によみがえるであろう」(ルカ18:32-33)とイエス自ら己の死を預言しているので、その場での描写はなくとも「むち打たれ」ている。また「マタイによる福音書」でもイエスは「そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」(マタイ20:19)と預言しており、「マルコによる福音書」にも「また彼をあざけり、つばをかけ、むち打ち、ついに殺してしまう。そして彼は三日の後によみがえるであろう」(マルコ10:34)とある。つまり「むち打ち」は「イエスの死」と不可分の条件であり、武御大も見事にそれをなぞっていたわけだ。

北斗:聖碑を負わされ聖帝十字陵を登る。
聖書:十字架を背負わされてゴルゴタの丘を登る。

 気になるのは、武御大がシュウに十字架を背負わせていることである。

マタイによる福音書 第27章32節
 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。

マルコによる福音書 第15章21節
 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。

ルカによる福音書 第23章26節
 彼らがイエスをひいていく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。

ヨハネによる福音書 第19章17節
 イエスはみずから十字架を背負って、されこうべ(ゴルゴタ)という場所に出て行かれた。

 御覧のようにゴルゴタの丘までイエス自らが十字架を背負うていったという記述は「ヨハネによる福音書」にしかない。他の三福音書では一様に「クレネ人のシモン」に背負わせており、「マルコによる福音書」では子の名まで記されている。この細かさ故に「マルコによる福音書」が最も嘘臭く見えるが、實は四福音書の内「マルコによる福音書」が最も古くに成立し、「マタイ」と「ルカ」は「マルコによる福音書」を元に再構成されたものだという説があるので、実際本当に「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」が居て、「郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた」のであろう。
 だが、映画や芝居の世界では、「ヨハネによる福音書」の説が人気で、例えばメル・ギブソン監督の『The Passion』でも安彦良和の漫画『イエス』でもイエスが十字架を担いでいた。「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」の成立がおよそ紀元六十年代か七十年代、「ルカによる福音書」が紀元八十年から百三十年の間とされるのに対し、「ヨハネによる福音書」は一世紀末頃というので、史書としては「ヨハネによる福音書」が最も信用出来ないのだが、物語としては成立が遅い「ルカ」と「ヨハネ」が面白く、故に「ヨハネ」の記述は伝承を伝えた者か或いは「ヨハネによる福音書」の著者かは判らぬが、恐らくイエスが十字架を担いだ方がドラマティックであろうという意図に基づいて脚色した記述であると考えられる。そして実際イエスが十字架を担いだ方がお話として面白かった。だから多分メル・ギブソンも安彦良和も「ヨハネによる福音書」の記述を採用した。そして『新約聖書』を読んだことがないキリスト教徒の多くが「ヨハネによる福音書」が伝えるイエスの死を信じている*3。シュウの死を「ゴルゴダの丘」のつもりで描いた武御大も、恐らくは面白さを優先して「ヨハネによる福音書」の記述…或いは俗説に従われたのであろう。

北斗:リゾが繃帯を巻きたいと願う。
聖書:罪人たちにも責められるイエスをひとりの罪人が庇う。

 武御大の「ゴルゴダの丘発言」の直後に『新約聖書』と『北斗の拳』を比較して、儂が最も感心したのがリゾの描写である。リゾは腿から血を流しながら聖帝十字陵を登るシュウに「聖帝様!!」「せめて/せめて/シュウの傷に/包帯を!!」(JC:11:057)と願うたが、サウザーの「よかろう/それほど/その布きれを/まきつけたい/というのなら」「きさまと/その家族全員の/命とひきかえに/許してやっても/よい!」(JC:11:058)という条件に屈して膝を着いた。この弱く優しいリゾに対し、シュウは「ありがとう/リゾ……/おまえの その/気持ちだけで/充分だ」「みなも/聞くがよい/今動く/ことはない」「おまえたちの/中にある/心が動いただけで/充分だ」「その心がいずれ/この世に再び/光をもたらす/であろう」「心ひとつひとつが/大きな束と/なった時に」(JC:11:059)と感謝し許した。「今こそ○○する時!!」などと盛上げがちな少年漫画に於いてこの死に臨むシュウの穏やかさ、優しさは稀有のものだ。将に聖人である。
 これが『新約聖書』の以下の箇所に対応している。

ルカによる福音書 第23章39-43節
 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
  そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

 「ルカによる福音書」にしかない記述だが、キリシタンでない儂でもこれはいい話だと思う。処刑中に侮辱されるイエスを辯護する者が現れる、という筋が味噌だ。この辯護者は盗賊だそうで、処刑する側の聖帝正規軍に所属する南斗聖拳のリゾとは身分も立場も違うが、リゾは「お…おれと/シュウは同じ/南斗聖拳を/学んだ仲!」「ともに泣き/ともに笑い/ともに修行を/積んだ同門の男/せめて情を!!」(JC:11:058)と己がシュウと同じ身分であることを示し、シュウを庇うている。イエスを庇うた盗賊もイエスと同じ処刑される者だったから、「処刑される者と同じ身分の者が処刑される者を庇う」という筋で、イエスと盗賊、シュウとリゾの関係は、この限りに於いて一致している。そしてイエスは「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」という願いに対して、「将来、楽園に行く時はあなたと一緒だ」ではなく、「あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいる」と応じている。つまり心の持ちようを以て「パラダイスにいる」としているわけだ。それはシュウが「その/気持ちだけで/充分だ」と云ったこととほぼ同義と見てよい。勿論イエスは「きょう〜〜いる」と謂い、シュウは「今動く必要はない」としているので、「今」の扱いが正反対だから、ぴたりと一致するわけではないが、現状を以て満足としていることでイエスとシュウは同じである。
 またリゾが布きれを巻きたがること自体がヴェロニカの聖顔布*4の逸話を思わせる。

北斗:槍で腹を刺される。
聖書:イエスがローマ兵に脇腹を刺される。

 イエスがローマ兵に槍で刺される行は餘りにも有名だが、實は「ヨハネによる福音書」にしかなく、然もたった一行

ヨハネによる福音書 第19章34節
 しかし、ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た。

 とあるだけで、これだけではとてもシュウが槍で貫かれたことと比較する材料にはなり得ないが、注意しなければならぬのは、キリスト教に伝わる物語が何も『新約聖書』のみに拠っているわけではないということだ。『新約聖書』に収められなかった外典の他、地方の伝説や偽典などもあり、その中には『新約聖書』の記述よりもよく知られ信じられている話が幾つもある。
 そのひとつが聖ロンギヌス伝説である。よく知られているので御存知の方も多かろうが、カソリックでは伝統的に「ヨハネによる福音書」の記述にあるイエスの脇腹を刺した兵卒は百卒長ガイウス・カシウスと謂い、白内障を患っていたが滴ったイエスの血が目に落ちて視力を取戻したことから回心し、洗礼を受けて後に聖ロンギヌスと呼ばれるようになったとしている。
 シュウはサウザーに腹を貫かれ、視力を取戻す。刺された者が視力を取戻すということで、これも完全には一致しないが、皆に尊敬され不当に殺される聖人が槍で刺され、何者かが視力を取戻すという概ねの筋は一致している。武御大がシュウの死の物語に聖ロンギヌス伝説の要素を取入れていることは誰の目にも明らかだろう。
 また面白いことに、南斗の都で盲いたケンシロウがシュウの魂を背負うてジャドウと戦うた際、己の血飛沫を目に浴び、何故かその血を拭うや視力を取戻している(JC:15:071-075)。この開眼がシュウの開眼をなぞっていることは誰の目にも明らかだろうが、血を目に浴びるという過程が加わることで、ケンシロウの開眼はカシウスの開眼により近い。目に浴びた血を拭うと開眼するという、一見意味の解らぬ描写を敢て入れる辺りに儂は武御大の意図を感じる。

 以上四つが明らかに『新約聖書』の記述を写したであろうと儂が思うた箇所であるが、これは飽くまで儂の解釈なので、幾つかに関しては考えすぎであるかも知れない。

もしかすると写したかも知れぬ描写

 以下は穿ちすぎやも知れぬが、矢張り『新約聖書』を写しているのではないかと思しき箇所である。餘りに些細なことである為、喩え「キリスト昇架」の逸話を知っていても、馴染みはないかも知れぬが、もし武御大が『新約聖書』を見ながら描いたのであれば、そんな些細な描写も写している可能性はある。


  1. サウザーに「ドブネズミの親玉」と呼ばれる。
  2. 百人の人質の命と引き替えにシュウが捕われる。
  3. サウザーは「蟻の反逆も許さぬ」。
  4. 百人の人質が女子供ばかりで、女たちが嘆き悲しむ。
  5. 聖帝十字陵は南斗の血が漆喰となってこそ完成する。
  6. 「聖帝十字陵はいずれ崩れ去る」という預言
  7. 北斗の三兄弟が集う。

 以上はそれぞれ…


  1. ピラトに「ユダヤの王であるか」と訊ねられる。
  2. イエスが処刑される代りに囚人バラバの罪が赦される。
  3. 「イエスこそ反逆者である」とユダヤ人が主張する。
  4. ゴルゴタの丘を登るイエスに嘆き悲しむ女たちが従う。
  5. ピラトがイエスの「血の責任」を問う。
  6. エルサレムの建物がいずれは崩れ去るという預言
  7. 三人のマリアらが見守る。

 と対応しているように思う。

北斗:サウザーに「ドブネズミの親玉」と呼ばれる。
聖書:ピラトに「ユダヤの王であるか」と訊ねられる。

マタイによる福音書 第27章11節
 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたはユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。

マルコによる福音書 第15章02節
 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは、「そのとおりである」とお答になった。

ルカによる福音書 第23章03節
 ピラトはイエスに尋ねた、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」とお答になった。

ヨハネによる福音書 第18章33-37節
 さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。
 イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。
 ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡しのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実は、わたしの国はこの世のものではない」。
 そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生まれ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。

 ピラト総督は、ユダヤをローマ帝国の属国として統治するヘロデ王、ユダヤ教の律法学者、民族的救世主でないイエスに失望したユダヤ人が、皆してイエスの処刑を望む中で唯一イエスに処刑される咎などないことを認め、イエスの命を助けようとしたイエスの縁者ではない人で、「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」「ヨハネによる福音書」は勿論、外典の「トマスによる福音書」「ニコデモによる福音書」でも道理の判る好人物として描かれている*5。故に悪逆非道なサウザーとは決して重ならないが、サウザーがシュウを捕える際に「ドブネズミの/親玉が!!」(JC:10:195)と呼んだことと、ピラトが裁判の為にイエスを引き出してユダヤの王云々を訊ねた行は、武御大の中では対応していたのではなかろうか。
 もしそうだとすると、シュウはこのあと「みなも/聞くがよい/今動く/ことはない」「おまえたちの/中にある/心が動いただけで/充分だ」「その心が いずれ/この世に再び/光をもたらす/であろう」「心ひとつひとつが/大きな束と/なった時に」(JC:11:059)と将来のことを述べているので、「わたしの国はこの世のものではない」とする……つまりイエスは来るべき神の王国の王であると説明する「ヨハネによる福音書」の記述を写したように見える。ならば、武御大は意図しておられぬだろうが、盲いたケンシロウがシュウの魂とともに戦いジャドウより被った傷の血を拭うことで開眼するというなんだかよく解らない描写に神学的な意味が生じる。

北斗:百人の人質の命と引き替えにシュウが捕われる。
聖書:イエスが処刑される代りに囚人バラバの罪が赦される。

マタイによる福音書 第27章15-22節
 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざんくるしみましたから」と言わせた。
 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
 総督は彼らにむかって行った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに、「十字架につけよ」と言った。

マルコによる福音書 第15章06-13節
 さて、祭のたびごとに、ピラトは人々が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやることにしていた。
 ここに、暴動を起し人殺しをしてつながれていた暴徒の中に、バラバという者がいた。
 群衆が押しかけてきて、いつものとおりにしてほしいと要求しはじめたので、
 ピラトは彼らにむかって、「おまえたちはユダヤ人の王をゆるしてもらいたいのか」と言った。
 それは、祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためであることが、ピラトにわかっていたからである。
 しかし祭司長たちは、バラバの方をゆるしてもらうように、群衆を煽動した。
 そこでピラトはまた彼らに言った、「それでは、おまえたちがユダヤ人の王と呼んでいるあの人は、どうしたらよいか」。
 彼らは、また叫んだ、「十字架につけよ」。

ルカによる福音書 第23章13-21節
 ピラトは祭司長たちと役人たちと民衆とを、呼び集めて言った、
「おまえたとは、この人を民衆を惑わすものとしてわたしのところに連れてきたので、おまえたちの面前でしらべたが、訴え出ているような罪は、この人に少しもみとめられなかった。
 ヘロデもまたみとめなかった。現に彼はイエスをわれわれに送りかえしてきた。この人はなんら死に当たるようなことはしていないのである。
 だから、彼をむち打ってから、ゆるしてやることにしよう」。
 (祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。)
 ところが、彼らはいっせいに叫んで言った、「その人を殺せ。バラバをゆるしてくれ」。
 このバラバは、都で起こった暴動と殺人とのかどで、獄に投ぜられていた者である。
 ピラトはイエスをゆるしてやりたいと思って、もう一度かれらに呼びかけた。
 しかし彼らは、わめきたてて「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と言いつづけた。

ヨハネによる福音書 第18章39-40節
 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
 すると彼らは、また叫んで「その人ではなく、バラバを」と言った。このバラバは強盗であった。

 多分この話はバラバなる囚人が云々ではなく、イエスのような義人がバラバが如き強盗風情と交換されることに意味があるのだろう。だからシュウが女子供百人と己の命を自ら交換したこととは同じではないが、捕われた者と交換されるという筋だけは一致しているし、シュウのような仁者であり拳士が人質の為に殺されるという悲劇はバラバと交換されるイエスと通ずるものがあると思う。

 処で全く余談になるが、この行、「マタイによる福音書」ではピラトの妻が登場し、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざんくるしみましたから」と謂う。この後「しかし、祭司長、長老たちは…」と続くので、一見ピラトの妻がイエスの処刑に反対しているように見えるのだが、イエスの処刑はユダヤの問題であり、ピラトはローマ人である。ピラトが「あの義人には関係しないでください」と願われ、それに従おうとするならば、ピラトはイエスをユダヤが望むように、即ちイエスを処刑せねばならない筈だ。つまりピラトの妻はイエスを殺せと云うていることになる。
 實はこの箇所、儂は読み易いので1955年出版の口語訳を用いているが、1917年の文語訳、1978年の前田護郎訳を見ると、ピラトの妻の発言に続く「しかし」がなく、また外典「ニコデモによる福音書」によると、ピラトの妻はユダヤ教に凝っているとある(ニコデモ2:1)。この場合、ピラトの妻は「ユダヤの問題なんだからユダヤに任せなさい」と云うていることになる。即ち文語訳乃至前田訳ならば「殺すな」とは読めない。多分ギリシア語で書かれた『新約聖書』には「しかし」がないのだろう。儂はギリシア語もアラム語も解らぬが、この箇所に関しては「しかし」つきの口語訳や岩波版は解釈を間違えていると思う*6

北斗:サウザーは「蟻の反逆も許さぬ」。
聖書:「イエスこそ反逆者である」とユダヤ人が主張する。

ヨハネによる福音書 第19章11-12節
 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜るものでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。

 「ヨハネによる福音書」にしかこの行はないのだが、皆が殺せと云ったから殺しました、というような書きようの他の福音書に比べ、「ヨハネによる福音書」は随分論理的だ。イエスが王位を僭称した以上、ピラトはローマ皇帝の臣下である。看過出来まい。だからイエス殺しの罪はピラトにはない。罪はユダヤ人にある。よってピラトはイエスの処刑を結局は認めた。
 これに対し、シュウは別に王位を僭称したことはなく、単にサウザーに反抗しただけだった。寧ろサウザーの方が帝位を僭称しているとも考えられる。故にこれも一致しないが、単純にシュウが反逆者呼ばわりされていることだけを見れば、一致していると云えないでもない。

北斗:百人の人質が女子供ばかりで、女たちが嘆き悲しむ。
聖書:ゴルゴタの丘を登るイエスに嘆き悲しむ女たちが従う。

ルカによる福音書 第23章27節
 大ぜいの民衆と、悲しみ嘆いてやまない女たちの群れとが、イエスに従って行った。

 他の福音書に同様の記述はないが、イエスの処刑に立会う者は女ばかりだったとあるので、「ルカによる福音書」のこの記述はそれを補強しているのだろう。

マタイによる福音書 第27章55-56節
 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。

マルコによる福音書 第15章40-41節
 また、遠くの方から見ていた女たちもいた。その中には、マグダラのマリヤ、小ヤコブとヨセフの母マリヤ、またサロメがいた。
 彼らはイエスがガリラヤにおられたとき、そのあとに従って仕えた女たちであった。なおそのほか、イエスと共にエルサレムに上ってきた多くの女たちもいた。

ルカによる福音書 第23章49節
 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。

 シュウと引き替えに命を助けられた百人の人質も女子供ばかりで、「ああ/シュウ様!!」「シュウ様!!」(JC:11:051)と悲しみ嘆くのは女ばかりである。
 但しこの後イエスは縁起でもないことを云うており、こればかりはシュウとちっとも似ていない。

ルカによる福音書 第23章28-29節
 イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。
 『不妊の女と子を産まなかった胎と、ふくませなかった乳房とは、さいわいだ』と言う日が、いまに来る。

 つまり近い将来に己の為と我が子の為に泣かねばならぬような終末が来ると云うている。シュウが「心配するで/ない………」「この岩を/おまえたちの命と/思えば重くはない」「ぬ!!」「たとえ/この力尽き/ようとも この/わたしの魂で/支えてみせよう」(JC:11:055)と實に穏やかなことを述べたのと比べると、イエスの預言は怖い。シュウとは正反対である。ただ、此処まで読んだ諸賢はそろそろ気付いているかも知れない。この「正反対」であることにも意味を見出す餘地がある。儂は今まで挙げてきた幾つもの「正反対」が連動していると考えている。武御大がそれを意図したとは思えないが、何かの事情でひとつの描写を「正反対」に描いた爲、結果的に連動する箇所も「正反対」になったのではなかろうか、と思うのである。

北斗:聖帝十字陵は南斗の血が漆喰となってこそ完成する。
聖書:ピラトがイエスの「血の責任」を問う。

マタイによる福音書 第27章24-25節
 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血についてわたしには責任がない。おまえたちが自分で始末するがよい」。
 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。

 この行でピラトは「咎なきイエスを我が責任で処刑するなんてたくさんだ。責任はお前らが取れよ」と確認している。それを「血の責任」と表現しているのだが、一方『北斗の拳』にもシュウの死の責任を問う行がある。シュウが「くるでないわたしは/この聖碑を/積まねばならぬ/この石は 百人の/人質の命 そして/南斗六聖拳の 乱れを防ぐ/ことの できなかった/わたしの痛み!!」(JC:11:081)と云うたことに対する「どこまでも/おろかなやつよ」「六星の乱に/責を感じて/おるとは」(JC:11:082)というサウザーの解釈だ。
 イエスは「あなたは、上から賜るものでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」(ヨハネ19:11)といい、己の処刑はユダヤ人の責任であり、ピラトに責任はないとしており、シュウも己の死は六星の乱を止められなんだ己に責任にあり、サウザーに責任はないとしている。ピラトはその責任を「血」と表現しており、サウザーはシュウの血が南斗の血であることを重んじている。

北斗:「聖帝十字陵はいずれ崩れ去る」という預言。
聖書:エルサレムの建物がいずれは崩れ去るという預言。

マタイによる福音書 第24章01-02節
 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

マルコによる福音書 第13章01-02節
 イエスが宮から出て行かれるとき、弟子のひとりが言った、「先生、ごらんなさい。なんという見事な石、なんという立派な建物でしょう」。
 イエスは言われた、「あなたは、これらの大きな建物をながめているのか。その石一つでもくずされないままで、他の石の上に残ることもなくなるであろう」。

ルカによる福音書 第21章05-06節
 ある人々が、見事な石と奉納物とで宮が飾られていることを話していたので、イエスは言われた、
 「あなたがたはこれらのものをながめているか、その石一つでもくずされずに、他の石の上に残ることもなくなる日が、来るであろう」。

 イエスの場合は生まれてきたことを後悔するような破滅が到来することを預言しており、シュウの預言と同じとは云えないが、イエスにしても、シュウにしても、今現在栄華を誇る壮麗な建造物が崩壊する…つまりその建物を造らせた権力が近い将来倒れることを預言している。

北斗:北斗の三兄弟が集う。
聖書:三人のマリアらが見守る。

ヨハネによる福音書 第19章25節
 さてイエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。

 「また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった」(マタイ27:55)に似た記述だが、「マタイによる福音書」及び「マルコ」「ルカ」の同箇所はイエスが息絶えた後に三人のマリアらのことを記しており、「ヨハネによる福音書」はイエスが息絶える前に三人のマリアらのことを記している。
 イエスの死を看取った女たちは三人ではない。イエスの母マリアと、クロパの妻マリア、マグダラのマリアの他に、ガリラヤからイエスに従ってきた多くの婦人たちがいた。然しこの場面で重視されるのは専ら三人のマリアであり、この三人のマリアは三人であることに意味があるとされ、十字架降下Descent from the Drossなどの画題でも必ずマリアは三人のマリアとして描かれる。何でもこの三人のマリアは古くよりヨーロッパで広く意識された"運命の三女神"を摸した神格だという説があり、何でもこの三女神に死を看取られることでイエスは神格を得るのだそうだ*7
 シュウの場合はイエスと同じようにシュウに従うてきた婦人たちとともに北斗の三兄弟が最期を看取りに訪れた。北斗の三兄弟は無論男なので、三人のマリアとはまるで違うが、こちらも三人であることに意味を持つ三人なので、その限りに於いては一致すると云える。

『旧約聖書』も読んでみよう

 以上武御大が『新約聖書』を写したと思しき箇所を列挙したが、これで武御大が話の種を全て明かしたと思うたら大間違いだ。何故なら「シュウの死」に於いて「イエスの死」のピラト役を演じたサウザーが、どうして子供を使役し聖帝十字陵を建造させたのか、どこからそんな設定を思いついたのか、ちっとも説明されていないからだ。
 以下、後篇を予定している。

aside

*1
2007/10/26.大幅加筆
*2
2007/10/29.補註加筆
*3
 實はキリスト教徒でも『新約聖書』をきちんと読んだことがある人は欧米にも少いという。寧ろ日本人の信徒の方がよく読んでいるのではないか。だから日本ではキリスト教徒が増えないのではないかと思う。何しろきちんと読むと『新約聖書』のみならず『旧約聖書』も併せて変な本なのだ。
*4
2011/01/28.追記
 聖ヴェロニカVeronicaもしくはベレニケBereniceは中世キリスト教伝説の聖女。十字架を背負ってゴルゴタの丘に赴くイエス(カルヴァリーの道行き)に額の汗を拭うようヴェールを差出した処、イエスが汗を拭ったヴェールにはイエスの顔が浮かび上がったという。
 そのヴェール=聖顔布はイタリアはマノペロの僧院でカプチン会修道士たちに守られて現存している。カトリック教会は公認していないが、遅くとも十二世紀頃から崇められていたらしい。
 ただこれだけのことでヴェロニカがどうして聖女扱いされるのか理解出来ない人が多かろうが、伝統的な解釈では、憐れなイエスの姿を見た人々はみなイエスに抱付きたいほどの気持ちがあったが、物々しい雰囲気に萎縮して何も出来なかった。そんな中勇気を出してヴェールを差出したヴェロニカの行為には意味がある、ということだそうだ。
 ヴェロニカの名は正典には登場しない。辛うじて外典の『ピラト行伝』に「ベレニケという名の女がいて、遠くから叫んで言った、「私は流血の病にかかっておりましたが、あの方の御衣のすそにさわりましたところ、十二年間も続いていた血の流れがなくなりました」(7:1)とあるのみである。
*5
 『新約聖書』ではなかなかの好人物として描かれ、コプト教会では聖人に列せられているピラトだが、実際は偶像崇拝を禁じられているエルサレムにローマ皇帝の肖像を持ち込み、様々な工事の費用を神殿の財産で賄うてユダヤ人の反ローマ感情を煽った結果、暴動を起したサマリア人を虐殺、属州民の訴えによって罷免されたという、何とも言じ難き人物で、『新約聖書』で好意的に描かれたのは福音書の著者にあった反ユダヤ意識の発露であろうとされる。ユダヤ総督を十年間勤めた以外の事績が伝わっておらず、出身地も生没年も判らないことから、実際のピラトは史書に記すまでもない程度の人物だったのだろう。
*6
 『修羅の国』の羅将殿が英語訳の『新約聖書』にも「But the chief priests ...」とあると御指摘下さった。残念ながら手前、ギリシア語もアラム語もコプト語も読めぬので確認出来ぬが、少なくとも英語訳では「しかし」がある
*7
 北欧神話には、最高神オーディンが冥界よりルーン文字を持帰る為に自ら世界樹ユグドラシルで首を吊り魔槍グングニルで己が身を貫いて運命の三女神ノルンに看取られ一旦死ぬ話があるが、現在伝わる北欧神話はもともと口承で伝えられていた形ではなく北欧がキリスト教化して二百年程も経った十三世紀頃にまとめられた『散文のエッダ』『詩のエッダ』『ヘイムスクリングラ』『デンマーク人の事情』に基づいている。『散文のエッダ』『ヘイムスクリングラ』を著したスノリ・ストゥルルソンはキリスト教徒であり、『デンマーク人の事績』を著したサクソ・グラマティクスに至ってはエウヘメリズム(神々は地方の王や支配者が畏敬の念から崇められ定着したものだとする思想。キリスト教が異教を滅ぼす為に用いられることもあった。)の人であったことから、キリスト教の影響を免れていないと見ねばならない。
 ユグドラシルで首を吊るオーディンの姿は死にゆくイエスと實によく似ており、恐らくこの話はキリスト教の影響下で変化したものであろうと考えられる。然しオーディンは「神」であるが故に「人」として生きたイエスの限界に縛られぬ故、教会が「イエスの死」をどのように解釈していたかを、より素直な形で示すことが出来た。このオーディンの姿を「イエスの死」に還元して再解釈してみれば、イエスは死ぬことによって神との再契約を取り交し(文字を持帰る)、三人のマリアに看取られることで死を超越して復活する力を得た(運命と時間の克服)のだと解釈することが出来る。

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