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修羅の国は何処にあるのか

 「修羅の国」の所在を現実世界の歴史から特定しようと試みています。


修羅の国は何処にあるのか

メモ*1

修羅の国の所在を巡る諸説

 修羅の国が一体何処にあるのか。これは可成り前から北斗istの間で謎とされている問題である。普通に考えれば支那だが、何分国土が広い彼の国の事、一口に支那と云っても山東説、上海説、寧波説、広東説、福建説、香港説などが考えられ、更に四国説、九州説、沖縄説など日本国内とする説、朝鮮説まであって、なかなか一筋縄ではいかない。

続き

 とは云え四国説、九州説は支持者が多いけれども、その根拠は稀薄だ。何故此程流布しているのかまことに理解に苦しむ。修羅の国発祥である北斗神拳は第一話で述べられている通り中国拳法であって本朝の産ではない。つまり四国、九州はあり得ない。ただ、沖縄は日本国内と云ってもそれは国境区分でのことで、文化的には支那に近いので考慮する必要がある。朝鮮も同じだ。
 だから山東説、上海説、寧波説、広東説、福建説、香港説、沖縄説、朝鮮説が残るわけだが、山東説は北斗神拳や北斗琉拳、南斗聖拳、元斗皇拳の特徴を見る限り無関係であろう。腕を以て主に打突するは一般に江南の武術の特徴で、ラオウ様の剛拳は洪家拳、ケンシロウは詠春拳などに似ている。洪家拳や詠春拳は江南の武術だ。トキの柔拳には八卦掌や太極拳の特徴が見られるが、これらは河南の武術だから矢張り河北の山東とは関係ない。山東説は考えなくていいだろう。
 然し支持者が多い沖縄説の根拠が北斗琉拳の"琉"が琉球の"琉"だから、というのは御粗末だ。これではただの言葉遊びだ。但し北斗神拳、北斗琉拳には空手的な動作が可成り多く見られるので、沖縄説自体はあり得ないではない。だが、空手の源流は江南の武術なので、上海説、広東説、福建説に求めた方が良かろう。

修羅の国上海説

 近頃俄に注目を集めているのが上海説である。これは『蒼天の拳』で金克栄の発言「上海を修羅の地と化す気か!?」に由来する説である。
 北斗神拳が創始された千八百年前の上海は漢の区分で云う揚州呉郡に属す。あちらでは任侠界を「江湖」というが、この語は呉郡にある長江と太湖の名に因み、伝説的兵法家孫子の出身地であるとされる。呉郡から南に行けば酒で有名な紹興市が属する会稽郡があり、此処は越とも謂い、呉と共に古来より剣を好んで死を軽んずる気風で知られる。呉王夫差と越王句践、絶世の美女西施や大富豪范蠡などの故事が有名だ。呉郡の西には勇猛な兵士の産地である丹陽郡、大都市の建業がある。長江を越えた北は徐州広陵郡、此処は前漢の名将韓信の出身地だ。
 上海は今でこそ文化的な街であるが、その気風は酒と剣、勇猛な兵士と知将を生む尊武の地で、『蒼天の拳』当時、実際にヤクザが跋扈した土地であって、今も実はいる。修羅の国に相応しい土地だ。上海周辺は北斗神拳が創始された頃から北斗宗家が信仰する仏教が盛んで、
 千八百年前頃の支那は大きな宗教の変革があり、それまで素朴な信仰でしかなかった原始的な道教が五斗米道と太平道という二つの教団としてまとまり、英雄曹操の登場で儒教の権威が失われはじめ、徐州牧陶謙配下の融と云う丹陽出身の男の保護により仏教が徐州辺りで信仰されはじめた時代であった*2
 北斗神拳が創始された千八百年前の当時、仏教の為に銭を使った権力者と云えば融、少しくだっても呉の孫権*3くらいしかいないので、北斗宗家の所在は恐らく徐州辺りではなかったかと考えられる。つまり上海説の可能性は可成り高い。泰聖殿だってもしかすると融が寄進したものかも知れない。

夕陽問題

geography200108280000.jpg 然し上海説には大きな問題がある。左の絵を見て欲しい。ファルコ臨終の一場面だ。ファルコとケンシロウは海に沈む夕陽を見ている。つまり、ファルコもケンシロウも西海を見ている。
 さて、支那大陸の地図を見て欲しい。一目瞭然である。何と、支那の西側には全く海がないではないか。即ち海に沈む夕陽など、支那からは絶対に見られないのである。従って修羅の国は中国ではなかった事になる。上海説どころか支那説自体が怪しい。中国拳法である北斗元斗南斗の源流を伝承するには支那でなければならない筈だが、その前提が成立しない。
 我ら北斗istは如何にしてこの問題を解決出来るのであろうか。矢張り沖縄説しか残らぬのであろうか。

修羅の国台湾説

 だが、儂は上海を初めとする支那説の根拠を全て包括出来、海に沈む夕陽を拝むことが出来る「支那」を知っていた。其処は上海・広東・寧波・福建に面し、その上沖縄に近い。更に四国・九州説の論拠である適当な狭さでもあり、高山も大河もある。そして小舟で日本と行き来出来ないではない適当な位置にある。それは即ち台湾だ。

 意外に思われるかも知れないが、元々「琉球」は隋以降、明末までは台湾の呼称で、「流求」「瑠求」などと書いた。台湾と支那大陸との関わりは三国時代にまで遡る事が出来、呉国の孫権が福建や湖南を開発する一方で海南や台湾を攻めたことに始まる。どうやら原住民を大陸に移住させて労働力にしたらしい。つまり人攫いをやったわけだ。ただ、十四世紀半ばに元朝が澎湖島を統治下に置いた以外、近世に至るまで「植民地」と云う概念を持たなかった漢人が台湾を「領有」したことはなかった。
 台湾が初めて漢民族の領土になったのは、1624年のオランダとスペインによる占領を経た1661年、鄭成功*4がそれらの勢力を駆逐してからで、鄭氏は同地を1683年、清朝に降伏するまで支配し、それ以降は清朝の領土になったが、清朝は台湾を「化外の地」と呼んであまりきちんと統治しなかった。本格的に開発を始めたのは1885年から、西欧列強及び大日本帝国の圧力を受けた為であるが、直ぐに日本の植民地になり、1895年に正式に日本に割譲、劉永福*5が抵抗して日本軍と戦ったが、植民地政策を経て1920年より本格的な「日本化」が進められた。
 1945年の日本敗戦で台湾は中国政府に返還されたが、台湾に上陸した中国支配者層の腐敗が酷く、1947年「二・二八事件」が勃発、1949年には「国共内戦」で敗北した蒋介石率いる中国国民党が逃れてきて、今の台湾政府になった。1950年に中国共産党が台湾侵攻を謀ったが、米国が第七艦隊を派遣して防衛、54年に台米安保条約が結ばれ、米国は1965年まで経済援助を実施した。

 台湾は上海(呉)と深い関係にあり、上海説の根拠の全てを引く継ぐ事が出来る土地である。更に『蒼天の拳』当時上海の統治者だった蒋介石が渡った土地であり、国民党支援者である北大路財閥との関係から拳志郎と繋がり易い。拳志郎が「修羅の地」にした上海を、蒋介石が台湾に持っていったと考えると面白い。沖縄説最大の根拠である「琉」の名は元々台湾のものであるし、西側に海がある上、適当に狭く、羅聖殿が沈んでいても不思議ではない河川がある。そして台湾は文化大革命*6によって弾圧された中国武術家が多く逃れた土地でもある。ファルコが云った「北斗元斗南斗の源流」も、文化大革命で台湾に避難した武術家達にその根拠を求めれば理解し易い。
 もし北斗神拳が台湾で創始されていたならば、鄭成功の縁で日本に伝承されたとしても不思議ではない。日本での中国拳法の歴史は意外に古く、寛永五年(1628)に戦乱を避けて日本に帰化した明の詩人陳元贇*7が十手術と共に伝えたという話である。陳元贇が北斗神拳伝承者であっても愉しい。
 兎も角、台湾は修羅の国としての条件を最もよく具えている。尤も、何故日本にあるであろうと推測される帝都から唯一残った海に出て、夕陽を臨む事の出来る台湾の浜辺に向かったのか、その航路が不可解であるが、もしかすると帝都が上海辺りにあったのかも知れない。ならば、『北斗の拳』の世界は日本にあるKINGから支那までを含めた窮めて広い範囲に及ぶ物語だったとも考えられる。唯一残った海は南シナ海だったのかも。

aside

*1
2005/08/29.加筆修正
*2
 このサク融という男が滅茶滅茶な野郎で、輸送物資などを横領して支那初の仏寺仏像を作らせ、灌頂会を催して門前市をなさしめた。恐らく天竺から流入する情報や富が目的だったのだろう。三国時代に至っても呉王孫権が仏教を保護し、上海周辺に信者を増やして、仏教興隆の基礎を築いたわけで、その意味でサク融は仏教の大恩人なのだが大悪人であったことは否めない。あまりの傍若無人に最期は民衆に怨まれて殺されている。
*3
 『三国志』は『北斗の拳』考察の基礎知識なのだが、自称『三国志』ファンたちに対して嫌悪感を持つ儂が何れ『三国志』について解説しようと思う。
*4
 長崎平戸にて支那人鄭芝竜と日本人の女との間に生まれた人。明朝の忠臣として生涯を反清に捧げた漢人の民族的英雄で、日本でも近松門左衛門の『国姓爺合戦』の主人公国姓爺として知られる。
*5
 広東出身の劉永福は貧民として各地を流浪しつつ父親から武芸を習い、太平天国に属した後に盗賊となって1865年ベトナムに移り、1867年黒旗軍を組織した。1873年、ベトナムを占領せんとするフランス軍を撃滅、総司令官ガルニエ将軍を敗死させると一躍アジアの英雄となり、1883年に再度攻めてきたフランス軍をまたも破って総司令官リヴィニール将軍を戦死させた。然しベトナムは結局フランスに屈服、劉永福は追放されて仕方なく清朝に戻る。清朝はこの勇猛な武人を取り立てたが、結局全体として清朝はフランスに敗れ、劉永福は気まずくなって職を辞した。1894年、日清戦争が起こると再び召し出されて台湾防衛司令に任命されたが、またも清朝が敗れ、台湾は日本に割譲される。然し劉永福は節を曲げず、日本軍に反抗し続けた。清朝の再三の命令で仕方なく引き上げた後、1915年、大隈重信政権が出した二十一箇条に怒って、義勇軍を募集、再び反抗しようとしたが、1917年、ことを起す直前に八十年の生涯を閉じた。広東の武術家黄飛鴻と親交があり、黄飛鴻は黒旗軍の武術教頭を勤めた。
*6
 大躍進政策の失敗によって失脚した毛沢東が劉少奇やケ小平を追い落として復権し、絶対的権威を確立させる為に起こした運動で、1965年から十年間続けられた。本来は権力闘争だったのだが、毛沢東は問題を階級闘争にすり替えて伝統文化および知識人・高級官僚などを弾圧した。これによって伝統文化だった武術も迫害され、多くの名手が台湾に逃れている。故に台湾は「武術の博物館」と称される程多くの武術が集まる土地となった。
*7
1587-1671
 生国は福建、安徽、蘇州、貴州、杭州など諸説あり、自身は大明国浙江省虎林人既白山人と著名した書を残しているが、どうやら余杭県の人らしい。名族頴川陳氏の出身で、祖先陳簡斎相伝の詩作法を授り、書は子昂流を能くした。名は餉、字は義都または士昇(士升)、既白山人、升庵、芝山、菊秀軒などと号した。
 崇禎中進士試験に落第したらしく、そのうち国が乱れたので元和五年鳳翔に従うて来日、尾張藩主徳川義直に六十石で客事した。萩、尾張、京、江戸に滞在して林羅山、石川丈山などの名士と交流、僧元政と『元々唱和集』を編むなどしている。書、医薬、作陶、菓子に通じ、特に製陶では安南風の元贇焼の製法を尾張に残した。
 陳元贇といえば漢学者或いは作陶家だが、拳法を少林寺にて学び、拳法と十手術を福野七郎右衛門、三浦与次右衛門、磯貝次郎左衛門に伝えたという伝説があり、柳生心眼流柔術の技の一部に八極拳に似た動作がある為、陳元贇は八極拳の遣い手ではないか、と考えられている。
 が、實はただの伝説に過ぎず、実際の陳元贇はそんなに武術を使えなかったらしい。折角面白い伝説なのにがっかりだ。

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