長いこと温めていた割に
はまとまっていないわ

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
本能寺で信長に天帰掌を教えた北斗神拳伝承者は何者か?

 本能寺の変で自刃する織田信長が恨みを残さぬよう天帰掌の意味を教えた北斗神拳伝承者が誰だったのか、特定を試みています。


本能寺で信長に天帰掌を教えた北斗神拳伝承者は何者か?

 『蒼天の拳』の終盤、天授の儀で霞拳志郎は己の過去世を観る体験をしている。その中で北斗神拳が空海…後の弘法大師の帰国とともに日本に伝来したこと、北斗神拳伝承者が織田信長に仕えていたことなどが明らかになった。
 弘法大師が唐から様々なものを持帰ったことはよく知られている。饂飩や素麺や蜜柑といった馴染み深いものから衆道…つまりホモセックスまで実に様々なものが弘法大師の持帰り伝説に帰せられている。北斗神拳もまたそのひとつであったわけだが、曾て儂は弘法大師が本朝に持帰った「不動明王信仰」が実は北斗神拳伝承者のことではなかったか、と推測したことがあった。即ちケンシロウが闘気の中に具現する闘神は劉宗武先生が具現する不動明王と同一であり、この不動明王に象徴される北斗神拳伝承者を弘法大師が連れ帰ったのである。
 この北斗神拳渡日から、霞拳志郎の幻視は七百年後の本能寺の変に飛んでいる。この七百年の間も北斗神拳伝承者が英雄に仕え守護していたことを疑うことはない。だがこの七百年間、北斗神拳伝承者は如何なる英雄を守護していたのであろうか? そして恐らく四十ウン代目の北斗神拳伝承者は如何にして織田信長に仕えるようになったのであろうか?
 そのことについて、儂には長らく温めていた持論がある。

続き

 弘法大師は帰国後に朝廷の篤い信仰を得て多くの山門を下賜された。その中に役行者が開基した河内国雲心寺、後の檜尾山観心寺がある。弘法大師は紀伊国の高野山と京都の東寺を結ぶ途上にある同寺を宿泊処として用いたようだが、この寺には珍しい特徴がある。北斗七星"そのもの"を勧請し祀っていることだ。
 北斗七星の"神"を勧請し祀る寺社は日本中に数多くあるが、北斗七星"そのもの"を勧請し祀るのは日本で唯一観心寺のみという。山門を入って真っ直ぐ登った金堂の真正面には北斗より飛来したと伝えられる一枚岩があり、七つの"星塚"が金堂を囲繞している。この祀り方も他に例がない。
 この観心寺を学問書として育ったのが、彼の有名な南朝の英雄楠木正成である。幼名を多聞丸と称した。多聞とは北方守護神多聞天に因む。
 楠木氏の出自はよく判らない。橘氏傍流為政の裔とも熊野国造和田氏の裔ともいうが判らない。北条得宗家の被官という説があり、東国の武士であったと考えられるが、これもまた確かではなく、鎌倉時代以前に遡ることも難しい。
 楠木氏の名が明らかな形で史上に現れるのは後醍醐帝が鎌倉幕府を倒した後である。建武親政下で楠木正成は帝の絶大なる信任を受け南朝の中核として活躍した。正成が湊川の合戦に敗れ自害した後も正成の子正行・正時・正儀らが零落する南朝を支えている。然し北朝を奉ずる足利幕府の世となり楠木氏は朝敵・逆賊とされて、『太平記』が流行し楠木正成が英雄視されてもその名は地下に潜ることになった。
 処が戦国の世に至り再び楠木の名が意外な形で顕れる。その頃京都を牛耳っていた松長久秀が楠木氏の赦免を朝廷に働きかけたのである。大饗正虎という男の嘆願を仲介したのだ。正虎は祐筆として久秀に仕えた当代一流の書家で、楠長晏と号し、楠木正儀の孫正盛の後裔を称した。楠木氏の名誉が回復してからは楠木姓を名乗り、織田信長上洛後は信長の祐筆として本能寺の変まで仕え、変後は秀吉の祐筆になった。晩年は秀吉の勘気を被ったという話だが、七十七で没するまで多くの文書を残した。

 儂はこの楠木氏が後の霞家ではないかと睨んでいる。
 先づ出自が鎌倉以前に遡れないことを挙げる。一説には秦氏…つまり渡来人ともいう。これが正解なら、その渡来時期は空海の帰国と同時であった可能性もある。つまり北斗神拳伝承者の家系が楠木氏になったと考えることが可能である。
 次に北斗七星"そのもの"を祀る観心寺の存在である。北斗七星"そのもの"を祀る寺社は日本で唯一観心寺のみだ。餘りにも特異である。楠木氏は観心寺領の在地豪族であり、正成は観心寺で育ち、大檀越であった。楠木正成―観心寺―北斗七星が一直線に繋がるのである。
 そして最後に楠木正虎の存在である。正虎は楠木正成の後裔を称し、織田信長の傍に仕えた。そして本能寺の変の時、楠木正虎が京都にいたことが判っている。本能寺に居た…かは判らないものの、京都にいたことは確実なのである。そして正虎は祐筆である。本能寺ではなくとも、本能寺の信長の近くに居たことは間違いない。このとき本能寺には島井宗室や神屋宗湛などの商人も居た。祐筆の楠木正虎がいても不思議ではない。寧ろ商人より祐筆の方が一緒にいた可能性がある。この楠木正虎が信長に天帰掌を授けた北斗神拳伝承者ではなかったか。

 因みに餘談であるが、『風姿花伝』で知られる観阿弥の母親が楠木正成の姉妹であったという史料がある。江戸末期の偽書説が根強かったが近年になって古い原本の存在を裏付ける史料が発見され、その真偽はよく判らないが、兎も角そういう話がある。
 その観阿弥の子世阿弥の娘婿が金春禅竹で、その後裔には隆慶一郎『夜叉神の翁』(未完)の主人公金春七郎氏勝がいる。「槍を十文字槍術宝蔵院胤栄、新当流長太刀を穴沢浄見、大坪流馬術を上田吉之丞といった当代一流の師に学び、いずれも皆伝を得ている。その氏勝が剣の師と仰ぎ、皆伝を許されたのは柳生石舟斎だった」(『柳生非情剣』P105)という武芸の天才である。
 昔から儂が指摘しているように、北斗神拳奥義七星点心は道教の呪術「禹歩」と殆ど同じものだ。この禹歩が変化して八卦掌の「走圏」になったとする説もあり、禹歩が日本に伝わって能楽の「反閉」になったとされる。相撲の四股も同じものという。隆慶一郎は柳生宗矩・宗冬が能に耽溺し、金春氏勝が柳生石舟斎に師事したことから、能楽の秘伝「一足一見」と新陰流の秘伝「西江水」を結びつけて幾つか短篇を書いている。

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