男前だったよね

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丹波哲郎追悼


丹波哲郎追悼

前文*1

 2006/09/24、俳優の丹波哲郎さんが亡くなった。別段ファンというわけでもなかったが、おもろいおっさんが居るなぁと面白く見ていたら、なんと丹波敬三の孫で丹波康頼の後裔であると知って大いに驚いた憶えがある。

続き

 親父が死んでから知ったことだが、うちの親父と隆慶一郎と丹波哲郎は齢が近く、昭和十八年、隆慶一郎は東大、丹波哲郎は中央大、うちの親父は駒大の学徒として、ともに同じ雨の神宮外苑で行進、出陣している。隆慶丹波とは随分道を違えたが、うちの親父も隆慶丹波と「同期の桜」だったわけだ。丹波哲郎は後方待機だったが、親父と隆慶一郎は陸軍士官として支那に渡っている。此処まで一緒なのに、随分道を違えたなぁ。戦後、うちの親父は復学した隆慶丹波と違うて帰郷し、焼けた寺を継いだ為か人格が破綻、お蔭で随分迷惑を被ったが、隆慶一郎は東京創元社、立教大講師、中央大助教授を経て脚本家になり、『シャドウマン』『ジキルとハイド』『騎馬奉行』『Gメン82』『夕陽の用心棒』*2などの作品で丹波哲郎と再会する機会があったと考えられる。そういや、隆慶一郎は『川上哲治物語 背番号16』の脚本も書いているが、丹波哲郎は旧日本軍立川航空隊教官だった川上哲治の部下で、随分酷く虐められたらしい。「川上さんだけは絶対に許せない」「実像と虚像の落差が激しい人物であったので部下にも人気がなかった」と著書にある。その辺、どうなんだろう。

 そんな丹波哲郎の訃報に触れて、そういやぁ丹波哲郎について昔書いたなぁと思い出し、古いDVD-RAMを漁って見付けたのが以下の記事だ。随分前に書いたので内容が古いが、誤字脱字を修正する以外は当時のままの形で再度掲載することにした。今読むと粗は多いが結構面白い。前はこんな冗談が書けたんだなぁ。

本文

坂上氏・百済王家傍流年表
応神二十年
 皇紀準拠:西暦290年
 推定西暦:西暦397年
阿知使主(推定で直支とする)が子・都加使主と共に百済より渡来。
応神三十七年
 皇紀準拠:西暦307年
 推定西暦:西暦414年?
二月、都加使主が呉(支那江南地方)に派遣される。
西暦八世紀頃坂上何某(田村麿?)が家系図を造作、後漢霊帝の後裔を称し劉姓を名乗る。

 天帝を天皇家であるとした場合、天皇家に仕える劉家は坂上田村麻呂の家系である。つまり坂上田村麻呂が北斗神拳の伝承者だった可能性がある。坂上家の始祖"阿知使主(あちのおみ)"が後漢霊帝の曾孫、つまり劉姓の者とされているからだ。
 然しその家系図は坂上家が八世紀頃に造作したもので、史実とは異なる。阿知使主の名は百済王"直支(とき。生年没不詳。『三国史記』では在位405〜420)"が変化したもので、伝説上の人物という。阿知使主は応神二十年(290年)に渡来した事になっているが、直支は397年(当時太子)、父・阿華王が高句麗と対抗する為に日本に協力を仰ぎ、人質として渡来した。阿華王の死(405年)に際して帰国、そのまま即位している。
 一応、天皇家と劉家が坂上氏によって繋がったが、坂上氏と北斗神拳の繋がりはまだ不明のままだ。
 あくまで推測だが、トキの名は直支に因んで付けられたのではないかと考えられる。

 尚、余談であるが、上記の記録で日本と中国・朝鮮の時間軸にズレが生じているが、これは大和朝廷が権威のために歴史を水増ししている為だ。初代の神武天皇は在位がB.C.660/01/01-B.C.585/03/11(歿するまで在位)、在位七十五年とは、幾ら何でも長すぎではないだろうか。実際の在位はその半分くらいではなかったかと思われる。推古天皇辺りまでは信用できない。
 実際の大和朝廷は千五六百年程度の歴史しかない筈だ。でないと、『三国志/魏書/烏丸鮮卑東夷伝第三十/東夷伝/倭人伝』の『卑弥呼』の記述と合致しない。卑弥呼が天照大神であるとする説もあるが、此処で取り上げる問題ではないので詳細は省く。

北斗・南斗・元斗、日本渡来の可能性

 北斗神拳及び南斗聖拳は中国拳法だと、原作『北斗の拳』に明記されている。よって、百済から渡来したものではない事は疑う余地もない。それに、北斗神拳は南拳の特徴が多く見られるので、明らかに華南発祥であろう。では、中国拳法を坂上氏が伝承する可能性について考えてみよう。
 阿知使主の子・都加使主(つかのおみ。生年没不詳)と云う人物がいて、此方は応神三十七年、呉(中国江南地方)に派遣されたらしい。大和朝廷の資料に従えば、応神三十七年はA.D.307年に当たる。然し、阿知使主が直支と同一人物だったとしたら、A.D.414年頃と云う事になる。都加使主が何時、呉に派遣されたかを断定出来れば、北斗・南斗・元斗の日本渡来の可能性について、何か糸口が見付かるのではないか。其処で、中国の情勢を見て、307年と414年頃のどちらかを吟味してみた。

 290年、西晋朝初代皇帝・司馬炎が死んでいる。跡を継いだ暗君・恵帝の時、世に云う『八王の乱』が起こったが何とか集結し、306年、懐帝が即位した。
 307年、司馬睿が安東将軍に任命されて建業(現在の南京。呉)に行った後、311年に洛陽は匈奴によって占拠され、西晋は滅亡した。華北の貴族・士人達は挙って司馬睿の許に逃れ、317年に司馬睿を元帝として東晋を建てている。東晋は420年まで続くので、414年頃の呉(建業)は首都だった。
 大和朝廷が呉に使節を送るとしたら、414年頃に送ったとしか考えられない。307年の呉は大都市ではあったが、地方都市に過ぎないので、使節を送る理由がないからだ。
 都加使主の中国派遣を414年と断定して良かろう。

 都加使主の中国派遣を414年だとすれば、東晋末期に当たり(420年から宋)、国政が不安定だった筈だ。
 もしレイの云う通り南斗聖拳が皇帝を守っていたとしたら、北斗・元斗も同じく皇帝に仕えていたに違いない。彼等が後漢→魏→晋と、代々帝室に仕えていたと仮定したなら(この三朝はきちんとした手順で禅譲されているので、北・南・元の守護者達も継承されていた可能性が高い)、彼等を疎ましく思う人物が浮かび上がってくる。当時帝位を狙っていた劉裕(356-422)だ。彼ならば、朝廷から北斗・南斗・元斗を遠ざけようとしたに違いない。では、彼にそれが出来たであろうか?
 結果から云えば、充分可能である。396年に即位した安帝は口が利けず、また404年桓玄に帝位を簒奪されていたのを劉裕が復位させたので、完全な傀儡であった。劉裕にとって、北・南・元を皇帝から遠ざけるのは難しくなかった筈だ。
 劉裕は、418年に安帝を暗殺し、継いだ恭帝から帝位を禅譲の形で簒奪した。414年頃、北斗・南斗・元斗は主を失って在野にいた可能性が高いのである。都加使主に誘われれば、天皇家に再就職したか知れない。

 北斗宗家の源流を高祖・劉裕に求める人もいるかも知れないが、劉裕は元々貧しい庶民であるから無視して良かろう。北斗宗家などと云う大それた家の生まれである可能性は全くない。また、漢室とも無関係だと当人が云っている。

仮説年表
――――――劉家・坂上氏(百済王家傍流)北斗・南斗・元斗
四千年前 北斗宗家成立。
後漢末 北斗神拳創始。
応神二十年阿知使主が子・都加使主と共に百済より渡来。 
応神三十七年二月、都加使主が呉に派遣される。劉裕によって皇帝から遠ざけられ、在野で困窮していたのを都加使主に誘われたかも知れない。中国人の性格からして、東晋が滅びてから来日したと思われる。
八世紀頃坂上何某が家系図を造作し、劉家を名乗る。北斗宗家はこの頃、坂上氏と融合し、坂上氏として天皇家に仕えていた。

坂上氏の検証

 坂上氏が劉家である事と、北斗・南斗・元斗の渡来の可能性についても御理解頂けたと思う。では、北斗神拳を伝承していた可能性のある家系、坂上氏について述べてみよう。

impression200105140000.jpg 『坂上系図』にある都加使主の子・駒子直と、蘇我馬子の側近・東漢駒(あずまあやのこま)は、断言は出来ないが、同一人物と見られている。東漢駒は崇峻天皇暗殺の実行犯で、暗殺と云う事から北斗神拳を思わせる。駒子直の孫・坂上老(おゆ)は壬申の乱で大海人皇子側について活躍し、その孫の犬養(いぬかい)は聖武天皇に武才を認められ昇進した。犬養の子・苅田麻呂は恵美押勝の乱に功があり、苅田麻呂の子・田村麻呂は奥州征伐で名高い。
 この一族はどうも血が武才に秀でていた様だ。
 坂上田村麻呂の武勇についても言及してみる。仮にも北斗神拳伝承者と目される男が、個人的武勇に欠けるようでは話にならない。
 田村麻呂は体躯に秀で、身長五尺八寸(175.7cm)、胸の厚さ一尺二寸(36cm)、体重二百一斤(120.6kg)。拳法家と云って充分通用しそうだ。金の付け髭で威容を誇ったと云うから、暗殺と云う質ではなく、剛拳を得意としていそうだ。目は蒼鷹の如く、睨み付ければ野獣をも脅えさせたが、微笑むと赤ん坊が懐いたと云う。ケンシロウの風格もある。
 観音菩薩を信仰していたと云うのは女人像を連想させる。また、田村麻呂は北方守護神・毘沙門天の化身とされ(観音信仰の影響によると思われる)、此処でも強い因縁を感じる。
 『田村三代記』によれば、田村麻呂には大獄丸と云う大敵がいたが、鈴鹿御前との愛の力で見事撃ち破った事になっている。北斗神拳の奥義は愛であるから、田村麻呂は北斗神拳伝承者として相応しそうだ。

 然し、残念ながら、田村麻呂の敵が破裂死したと云う資料は見付からなかった。

医家・丹波史氏

 タロイモ氏*3が御指摘下さった。七世紀頃に坂上氏から分かれた丹波史氏のことだ。丹波史氏は代々医家である。北斗神拳は医術として応用出来る事はトキの例で明らかだ。坂上田村麻呂が北斗神拳伝承者でなかったら、此方を北斗神拳伝承者と考えても良い。否、此方の方が相応しいかも知れない。
 『新撰姓氏録』左京諸蕃に後漢霊帝の後裔とある為、丹波史氏は当然『劉家』だ。十世紀末の康頼*4以前の系譜は不詳だが、十一世紀初め、名医・忠明の時に朝臣姓を賜り、典薬頭を世襲している。忠明の子・雅忠も名医として名高く、数々の逸話を残しているらしい。
 丹波康頼は針(秘孔点穴)に詳しかった様で、また丹波氏は和気氏と共に侍医を世襲した。侍医とは天皇の脈をとり望診する他、毒味もする。北斗宗家の者は毒に強い耐性があるから、ますます北斗神拳的だ。
 秘孔や診療、毒味(耐毒性)など、丹波史氏には北斗宗家の特徴が見られる。武勇を除けば、坂上氏より此方の方が北斗神拳伝承者に相応しい気もするが、此方をそれだと認めると、とんでもない人物の名が浮かび上がる。

 医家・丹波史氏の直系の子孫丹波敬三は梅毒の特効薬を発明している。その孫正三郎は九つの砌、お女中と相撲を取っていて欲情し、組み伏せて女を知り、大学時代は英語サークルに入たが英語を憶えず、それなのに通訳に抜擢されたり、俳優になってからは台詞を憶えずカンペに頼り、それなのに『007』にタイガー田中役で出演、日本中を地下特急で移動しながら姫路城の忍者養成学校の校長になり、監督として映画二本を制作、霊界研究家として名を馳せた。つまり丹波哲朗である。

丹波哲郎!

 丹波哲朗が北斗神拳伝承者である可能性もあるのだ。確かに、強敵の魂を背負って自らの拳を高めるのが北斗神拳の奥義だ。霊界くらい研究しても不思議ではない。然し、その研究成果、云うなれば北斗神拳究極奥義の映像化が

大霊界

 だったなんて、儂は信じたくない!

跋文*5

 生前、奥様の為に死後の世界について説きはじめ、奥様の死後も死ぬのが楽しみだと仰有っていた方だ。御冥福をお祈り致します、などと湿っぽいことは云うまい。浄土で奥様と再会なされたことをお慶び申上げておこう。

aside

*1
2006/10/03.追記
*2
 確か幕末に丹波哲郎が海にガトリンクガンを捨てに行く『ブッシュマン』みたいな話だった。多分うちの部屋を漁れば録画したビデオテープが見付かると思う。
*3
 『徹底歴史研究同盟』の常連さんで、こんな馬鹿に付合って下さった親切な人。上記事を書いた時に内容のチェックを依頼した。
*4
日本最古の医術書『医心方』の撰者
*5
2006/10/03.追記

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