好意的に
過ぎるんじゃないかしら

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
『殉愛の章』を観て

 『真救世主伝説北斗の拳 ラオウ伝 激闘の章』を映画館で見た直後の感想です。


『殉愛の章』を観て

集まる批判

 『真救世主伝説 北斗の拳 ラオウ伝 殉愛の章』*1は公開直後に友人夫婦と三人で観に行った。儂はアニメを長時間観るのが苦手で、アニメなんてものは三十分以内に収めるもんだ、出来れば十五分以下が望ましい、と常々思うていたのだが、どういうわけか『殉愛の章』は上映時間實に九十五分にも及ぶのに、意外と苦痛を感じず観ることが出来た。前の劇場版『北斗の拳』が辛かったことから、別に『北斗の拳』だから、というわけではなかったと思う。恐らく公開前のイベントで監督が「実写映画のように撮った」と云うていたから、アニメ特有の儂に苦痛を与える要素が少かったのだろう。
 処がこの映画、どういうわけか公開前から批判が多い。公開前から、ということで、事情を知らない人には奇異に感じられるかも知れないが、これが實にくだらない批判で、要は宇梶剛士、阿部寛、柴咲コウという三人の有名人を声優に起用したことで、テレビシリーズの従来の声優を望んでいた者ども、専業の声優の起用を望んでいた者どもが、思い通りにならなかったと喚いていただけのこと、批判の内容は實に御粗末、三人の起用が発表された時点、まだ予告編も作られておらぬ時に、もう批判の声が上がっていたくらいだった。
 こんな批判、批判としての価値など一毛とてあるまい。これを書いている今も、OVA『真救世主伝説 北斗の拳 ユリア伝』のキャストが公開されて、ユリアを石田ゆり子、ジャギをデビット伊東が演じることが決っているが、まだ予告編に一声も充てられておらぬ時から、もう石田ゆり子、デビット伊東起用に対する批判を見聞きする。呆れるしかない。特にデビット伊東に対する批判が馬鹿馬鹿しい。「芸人に声を充てさせるなんて冒涜だ」なんて、職業差別じゃないか? 大病患うた後の復帰の仕事だってのに、こんな相手じゃ、やり甲斐もない。もしかして自称ファンどもは敢て駄作になることを望んでいるのではあるまいな。タナトスの変形であろうか。
 批判はしたが、自分は違う、と思うている人も、「有名人を起用したこと」「専業の声優でないこと」「テレビシリーズの声優でないこと」を批判していたのであれば、そう程度は違わない。このような批判が批判として成立していないことに気付いていないなら同じである。批判がこの三つのいずれかに属する限り、どう言葉を繕おうと筋違いである。

続き

世間はそんなに『北斗の拳』に興味がない

 有名人を起用したことについて批判している人は、恐らく有名人に対して意味のないコンプレックスを抱いているか、『北斗の拳』を過大評価している人であろう。
 コンプレックスについては論じるに値すまい。精々、あんな有名人より自分の方が北斗を愛している、なのに有名だからってあんな奴らを起用しやがって、なんて腸が腐れた嫉妬に基づいているのだろう。怨むなら相手と同じ土俵に立ってから怨めばよかろう。曾ての山寺宏一のように*2
 過大評価とは、『北斗の拳』に対する世間の認知工合のことだ。昔あれだけ流行したのだから、みんな『北斗の拳』は大好きでしょう、と浅薄な者どもは考えるだろうが、生粋の北斗istであると自負する儂は、実体験として知っている。世間はそんなに『北斗の拳』に興味がない。
 まさか、あんだけパチスロ機でうけたのに、と思われるかも知れないが、パチスロ機業界なんて、そんなもんである。少し見た目が面白けりゃ、何だってうけるのだ。だって、他にうけたパチスロ機を見て御覧なさい。何でうけるのだ?と門外漢にはサッパリ解らぬ代物が目白押しだ。所詮、『北斗の拳』も「昔流行ったなぁ、懐かしいなぁ」という程度の興味でうけたに過ぎず、今更サウザーだ、ジャギだ、アミバだなんて云われても、殆どのプレイヤーは憶えちゃいない。極端な話、『北斗の拳』なんて我々北斗istしか憶えていないくらいに思っていた方が良い。『東海道中膝栗毛』のタイトルは皆憶えていても、どんな話かみんな知ってますか? その程度のものだ。

 悲観的というなかれ、それが現実だ。もっと判り易い例を挙げれば、webサイトを観ると解る。検索して確認して御覧なさい、『北斗の拳』を扱うwebサイトは数多あれども、質量ともに『DRAGON BALL』『キン肉マン』『機動戦士ガンダム』『はだしのゲン』『魁!男塾』などと比べると随分見劣りする。これでは新たに興味を抱いた門外漢が『北斗の拳』を検索しても大した情報を得られない。その積重ねで、世間は『北斗の拳』を忘れていく。忘れられた分だけ世間は『北斗の拳』に興味がない。勿論これは単にwebの素材として『北斗の拳』が扱い難いだけで、何も『北斗の拳』が他の作品に劣るという意味ではないのだが、扱い憎いが故、世間は『北斗の拳』を忘れ易い。
 また、書籍にも面白いものがない。これは絶無というてよい。『キン肉マン』『機動戦士ガンダム』『魁!男塾』などの関連書籍に比べると随分御粗末だ。巨椋修『北斗の拳・蒼天の拳研究序説』*3程度でそこそこ売れるのだから、その程度が解る。これも『北斗の拳』がテキストに向かないというだけで、作品として劣るというわけではないのだが、その分世間から忘れ去られ易いことは確かだ。
 アニメの再放送も、衛星放送、ケーブルテレビ以外では期待出来ない。何せ『北斗の拳』は人が破裂する作品だ。当時から七面倒くさい放送規制があったのに、それが年々厳しくなっている。地上波放送など到底無理だ。矢張りテレビ放送の華は地上波、それが期待出来ぬなら、忘れ去られるのみ、『北斗の拳』は忘れ去られる運命にある。

 『北斗の拳』が世間から忘れ去られる。『北斗の拳』は忘れられ易い作品だ。作品の質は他のどの作品よりも優れていると我々は思うが、残念ながら扱い憎い為にどうしても忘れ去られる。精々「あたた」「ハート」「北斗百烈挙」「お前はもう死んでいる」「ひでぶ」「しゃおー」くらいの印象しか残らない。「北斗百烈挙」は冗談ではない。本当にこういうことがある。
 このままであれば冗談でも極端でもなく『北斗の拳』の記憶は絶える。我々北斗ist以外は忘れてしまう。そんなアホな、と思うなかれ、永島慎二、宮谷一彦、鴨川つばめなど、当時流行しながら忘れられた作家は幾らもいる。吾妻ひでおなんて、ファンだけしか憶えていない。儂だって、『失踪日記』*4がAmazon.comの「おすすめ商品」に入れられるまで、吾妻ひでおなんてさっぱり忘れていた。『北斗の拳』だってそうならないとは限らない。

 『北斗の拳』が忘れ去られる!

 その危機感は堀江信彦、原哲夫、武論尊の三御大も抱いていたらしい。それは作家であれば誰もが抱く危機感であろうと思う。コアミックス設立以来、雑誌のインタビューやテレビの取材など、様々なメディアで堀江信彦、原哲夫、時々武論尊がその危機感を口にしている。およそ「自分たちの青春が世間から忘れ去られることが怖い」というような内容だ。裏を返せば世間から『北斗の拳』が忘れられそうであることを、作者は切実に感じていたわけだ。
 事実、ニュース番組で取上げられるほど宣伝が行届き、鳴物入りで創刊された『コミックバンチ』で、『Angel Heart』と二枚看板で連載をはじめた『蒼天の拳』が、實はそれ程世間に知られていない。世間の『北斗の拳』に対する興味の程が知れる。二十年前、毎週四百万人が『北斗の拳』を読んでいたというのに、『蒼天の拳』の読者は精々毎週五十万人くらい、三百五十万人は何処に行ったのだろう。何処へ行った貴様ら! 堀原武の三御大は将にこの危機感故に『殉愛の章』を作った。諸々の発言から明らかである。何よりクレジットに名がない堀江信彦こそ怖れたのではないかと思う。

 映画は興行である。制作には銭もかかる。その素材は世間から忘れかけている『北斗の拳』だ。興行であるから銭も耳目も集めねばならぬ。
 其処は堀江信彦、憎たらしい程老練巧妙、しれっと恥ずかしげもなく様々な手段を用いる。流石『週刊少年ジャンプ』を毎週六百五十万部も売った男だ。その手段のひとつが宇梶剛士、阿部寛、柴咲コウの起用だったのだろう。
 原哲夫は「身長180cm以上の人を」という理由で宇梶剛士と阿部寛の起用を決めたそうだ。曰く、『北斗の拳』は180cm以上の男がうようよいる世界である、180cm以上の男と以下の男は同じ太く作っても声が違う、故に事実長身の人を選ばねばならない、云々。
 実際にレスラーや力士、野球選手などを見て、話したことがある人なら解ると思うが、これは道理である。ただ声が太い人と、180cm以上の人では、声の質が根本的に違う。意外に長身の人の声が高音であったりするが、体の大きさに伴う何らかの幅がある。決して170cmの人が真似られるものではない。その理窟に基づいて有名人の中から適任者を探すと、時任三郎、川合俊一、宇梶剛士、阿部寛くらいしかいない。
 阿部寛は昔から北斗istとして知られる人で、容姿もケンシロウによく似ている。生身のケンシロウと云うてよかろう。ケンシロウが実在したら恐らくあんな声だ。これ以上の適任者はあるまい。
 宇梶剛士は北斗istではないが、曾てブラックエンペラー七代目総長*5を張った生ける伝説、当時日本で最も拳王様に近いキャラクタであった。口の悪い物知らずの中には「テレビドラマで見たことがない。売れてない俳優」という者がいるが、テレビドラマに出ないのは当然で、宇梶剛士は舞台俳優である。経歴が面白いからバラエティ番組に出ているに過ぎず、舞台俳優が声優に、という流れは懐かしくも伝統的である。多くの声優の前身が舞台俳優であったことは後で詳しく述べる。
 180cmという基準からは女故に漏れるが、柴咲コウも随分前から『北斗の拳』の愛読者であることが知られていた。儂も数年前、何かのトーク番組で柴咲コウが『北斗の拳』を語るのを観た。『北斗の拳』を愛する女の有名人なんて、あとYOUくらいしか思い浮ばないから、適役と云える。
 堀江信彦が狙ったであろう宣伝効果は、恐らく柴咲コウが最も大きかったと思う。何せ人気女優だ。宇梶、阿部だけならワイドショーで報道されることもなかった。きっと桂ざこばも知ってくれた筈だ。有閑マダムまで知ってくれたに違いない。有閑マダムにまで知ってもらう必要はなかったであろうけども。

 この映画は我々の如き黴が生えた北斗istの為には作られていない。堀江信彦や監督が云うていた。『殉愛の章』は原作を読んでいない人にも解るように作ったと。成程、リンとバットの説明こそないが、導入部は可成り親切丁寧に作ってある。新規のファンを獲得する為には当然のことだ。北斗istにとってはまどろこしい部分であるが、『北斗の拳』を知らぬ人には必要だったと思う。いうなれば『殉愛の章』は入門編、我々北斗istは別に観なくても良かった作品だ。
 これを以て我々古い北斗istが無視されたと思うのは早計である。何故なら『殉愛の章』のお蔭で我々は陰に陽に恩恵を被っているからだ。
 例えば『北斗の拳 完全版』全十四巻*6が発売されている。細部に不満はあるが、連載当時の着色が甦る美しい本で、概ね儂は満足している。
 書籍を買い慣れぬ人は解らぬかも知れぬが、出版社にとってこの手の出版は怖い。上質紙の着色刷りは原価が高くなる故、どうしても価格を勉強せねばならず、利潤が薄く、売れ残ると困る。我々北斗istは買うとしても、我々だけ相手にしていては商売にならない。きっちり宣伝され、ちゃんと売れると解らねば、出版社は出してはくれない。故にこんな本が出てくれるのも、一重に『殉愛の章』のお蔭だ。我々は充分『殉愛の章』の恩恵に浴している。感謝せねばなるまい。

声優は特殊技能者か?

 専業の声優を起用しなかったことを批判している人は、単にものを知らないか、不誠実にも歴史を軽んじる性根の卑しい人だ。何故なら現在世間で「実力派声優」と評価されている声優の殆どが抑も声優の訓練を受けて声優になったわけではないからだ。
 先づ声優の定義だが、声優を「声だけで役を演じる人」とするならば、漫談家、落語家、漫才師、浪曲師、活動弁士、太平記読、ささら者、説法師、坊主までが声優ということになってしまい、広汎に過ぎるので、搾って考えねばなるまい。単にアニメに声を充てる人に搾れば、本邦最初の声優は1933年の短篇アニメ『力と女の世の中』で声を充てた古川緑葉らコメディアンで、その頃声優という役割は存在しても、声優という職業はなかった。
 昔、アニメは簡単な滑稽話を描くだけのものだったので、今から四十年くらい前までは専らコメディアンが声を充ることが多かった。「海外テレビまんが」と呼ばれた米国産アニメの吹替えも、例えば『宇宙怪人ゴームズ』のガンロックや『スーパースリー』のコイルを演じた関敬六のように、だいたいコメディアンが適当に充てていた*7。これを踏まえるならば、アニメ声優の正統はコメディアン出身者である。時代が下っても、例えば『じゃりんこチエ』の西川のりお、上方よしお、島田紳助竜助、横山やすし、西川きよし他*8、『アイシールド21』の田村淳など、コメディアンが思い出したように起用され、それが結構いい演技をする。このような前例を顧みれば、『ユリア伝』にてジャギ役に起用されたデビット伊東が批判される謂れはない。

 但しコメディアンは今で云う専業の声優の直接の先祖ではない。今ある専業の声優の直接の先祖は1940年頃に人気を博したラジオドラマの役者、所謂「ラジオ役者」である。テレビが普及する以前は専ら娯楽といえばラジオだったので、ラジオドラマが盛んに作られた。故に「ラジオ役者」は映画俳優に次ぐ人気職業だったようだ。誰あろう、宇梶剛士の前任者、内海賢二も「ラジオ役者」出身の声優である。長いなぁ。
 但しこの頃の「ラジオ役者」は世間も俳優も「ラジオ役者」自身も俳優と「ラジオ役者」を区別していなかったらしく、専門の養成所はあったが、容易に俳優が「ラジオ役者」を演じ、「ラジオ役者」が俳優に転向出来た。例えば『鉄腕アトム』でお茶の水博士を演じた勝田久は、最初から「ラジオ役者」に憧れて「ラジオ役者」目指したが、鎌倉アカデミア演劇科に入学して俳優の訓練を受けている。また名古屋章、吉永小百合、藤田弓子などは「ラジオ役者」出身であるが、すんなり俳優に転向し、取立てて「元ラジオ役者」「元声優」と呼ばれることはない。恐らく転向という意識すらなかった。
 時代が下り、ラジオドラマが衰頽すると、「ラジオ役者」も少くなったのだろう、声優の仕事の多くは俳優や歌手が担うようになった。思いつくままに挙げれば、野沢那智、鈴置洋孝、永井一郎、山田康夫、小林清志などは俳優出身、池田秀一は元天才子役、佐々木功はロカビリー歌手から歌手兼俳優兼声優に、戸田恵子は演歌歌手から女優兼声優に、宮村優子はJAE所属のアクション女優から声優に、大塚周夫はダンサーから俳優を経て声優になった人だ。愛川欽也に至ってはいったい何からはじめたのやら、俳優兼司会者兼声優兼実業家(廃業家?)と實に多才、古川登志夫は声優から始めたが、根が多才なのだろう、今では声優兼俳優兼劇作家兼ギタリストである。
 こうなると、東野英治郎の如く「己の尺で演じられぬ芝居とは呼べない外道の所業」とは思わぬまでも*9、果たして声優は特殊職なのか、専門職なのか、特殊技能者なのか、甚だ疑わしい。声優とは、もしや、俳優、歌手、ダンサー、コメディアンなどなど、感情表現の訓練を受けた人であれば、案外誰でもある程度出来るものなのではあるまいか、假に特殊技能であったとしても、感情表現の素養があれば容易に習得出来るのではあるまいか。
 事実、専業でないのに巧い人が幾らもいた。『ムーミン』ムーミン:岸田今日子、『宇宙戦艦ヤマト』デスラー総統:伊武雅刀、『王立宇宙軍』シロツグ・ラーダット:森本レオ、『あしたのジョー』矢吹丈:あおい輝彦、丹下段平:藤岡重慶、力石徹:細川俊之、白木葉子:檀ふみ、マンモス西:岸部シロー、ホセ・メンドーサ:岡田真澄、『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』夢邪鬼:藤岡拓也、『アラジン』アラジン:羽賀研二、などなど、何れも声優ではなかったが、巧かった。味わいがあった。
 こうなると専業の声優を起用せよと批判している人が馬鹿に見える。何だお前ら、所謂声優萌え〜か、オッパイ大きなフランス娘より日本の声優と結婚したいセバスチャンか、と悪口が色々浮ぶ。抑も「実力派声優」なんて居やしないじゃないか。いるのは優れた演技者のみ、声優であるかなしかは関係ない。それより主に声優を勤める役者の出演料が安いことをファンは気にした方が良い。「磯野波平ただいま年収164万円」*10、己の欲望ばかりでなく、そういうことを訴えたらどうか。

テレビアニメ版『北斗の拳』から二十年も経った

 テレビシリーズの声優でないことを批判している人は、時間感覚がない人だ。
 『ルパン三世』を観りゃ解るだろう。えらいことになっている。次元大介と銭形警部は舌が悖らんただの爺さんだ。峰不二子だってすっかり婆さんである。ルパンは亡くなったので否応なく代ったが、他は代えるに代えられぬ。最早代える機を逸した。ルパンのみ若返り、新たな若い声の新キャラの中で、ただただ次元、銭形、不二子の声のみ老けてゆく。
 嗟乎、観ておられぬ。『ルパン三世』のファンはどうも思わんのか。何故「お疲れ様でした」と云うてやれぬ。もうお三方とも老いているではないか。死ぬまで働かせる気なのか。あの渋かった次元が、あの熱かった銭形が、あの艶かしかった不二子が、ただの老人ではないか!
 儂は何も年老いることを悪いというているわけではない。もう老いて隠しようがないのに、いつまでも同じ役を演じさせられることを嘆いているのだ。漫画、アニメのキャラクタとて、年齢がないわけではない。喩え厳密でなくとも、ある程度の年頃くらい設定されている。その設定年齢に合うた声優が声を充てねば不自然だ。処が、稀に内海賢二、千葉繁、古谷徹、池田秀一のように老けない人もいるが、大概の人は声とて老ける。特に声こそ老け易い。如何に曾てその声優の声がその役に似合うていたとしても、声が老けてはいつまでも演じ続けられはしない。
 出来れば御本人方も己が育ててきた役だ、出来るだけ長く演じていたいだろう。だが、もう老いて演じられぬとなれば、引き際を考えねばならぬ。だが、アニメの配役は声優より上の意思で決るという。声優の勝手にはならぬものらしい。果たして己らが引き際を察していても、思い通りに引けるものやら。また、ファンはいつまでも演者に昔の演技を求めるものだ。もう無理でも、曾ての記憶に基づいて、あの声でやれという。無理難題と云うよりない。
 実写の俳優に置換えて考えてみれば、そのグロテスクがよく解る。如何に曾ての美人女優とて、もう佐久間良子は娘役をやらない。朝丘雪路も、藤純子も、倍賞千恵子もしない。稀に森光子の『放浪記』みたいなことはあるが*11、あれは稀有の例外だ。先づ大概年相応に老け、老け工合に相応の役をする。老けても延々やり続けるのは声優くらいのものだ。
 顔が見えぬ故、子役でも出来るだろう、若者の役でも出来るだろうと考えているのならば、それは声優の仕事を貶めている。声優も俳優だ。老ければ老けたなりの役があろう。それをいつまでもファンが求めちゃいけない。愛しているわけでなく、それは貪っているに過ぎない。

 『北斗の拳』の登場人物には殆ど年齢設定がない。ラオウ様もケンシロウもユリアも幾つか判らない。だが、それでも、ある程度の目安はある。そのことについては様々な北斗istの考察があり、儂も行うている。判断する材料はある程度ある。幾ら何でも無理、という境界が厳然と存在する。
 ラオウ様とケンシロウは意外に若い。行って三十代だ。ユリアはもっと若い。案外みんな大学生くらいの歳だったりする。ラオウ様は特殊だから措くとしても、ケンシロウとユリアは結構普通だ。その演技を果たして今の神谷明に出来るだろうか。山本百合子に出来るだろうか。
 『北斗の拳』のテレビシリーズが放映されていたのは、遙か二十年も前のことである。その年月の分だけみな老けている。内海賢二や千葉繁はちっとも老けないが、残念ながら神谷明は少し老け、山本百合子は随分老けた。失礼だが、PS版『世紀末救世主伝説 北斗の拳』でユリアを演じた山本百合子は、随分草臥れていた。嗟乎、悪いなぁ、と感じた。千葉繁、古谷徹、池田秀一などのように老けぬ人、内海賢二、永井一郎、八奈見乗児みたいに元から老けている人は別だが、もう他の人は無理しないで頂きたい。二十年経ったのだ。仕方ないじゃないか。
 更に原作と『殉愛の章』では微妙に年齢設定が違うている。原作のラオウ様は計算すると意外に若く、三十前後、然し思想は既に老成、諦念に至り、やや老けている。故に内海賢二の声がよく似合った。だが、『殉愛の章』のラオウ様は、諦念に至る途上である。ソウガの死を哀しみ、傷ついたレイナの為に咆哮するだけの若さを残している。これでは老けた声が持ち味の内海賢二は演じられまい。とても似合わぬ。声は老けずとも、内海賢二、もう七十、あらゆる意味で無理だ。

 二十年の年月は声優を代えるいい理由だと思うのだ。『ルパン三世』の如き無惨を『北斗の拳』では見たくない。声優さんに年相応に老けてもろうて、老けたら老けたなりの役を演じてもらいたいと思う。鈴置洋孝にそんな話があった*12

アニメとして観るから悪い
 以上で浅薄な声優批判者どもの批判を終えるが、これだけで終えると儂もまた不誠実の謗りを免れまい。以上では三人の声優としての能力、素養について一言も触れていないからだ。どれだけお前が庇ったって、下手は下手じゃないか、と云われれば、筋が通る通らぬを超えて、儂の批判は説得力を持ち得ぬ。勿論、下手だと評価している人の中には、上記の如き腸の腐れた意気地に基づく批判者が多く混じっており、そんな連中の批判なんぞ犬の吠え声より意味がないが、そうでない批判者もおるにはおり、それらを"腸の腐れ者"と十把一絡げには出来ない。故に三人の声優としての能力、素養についても論じておかねばならぬ。

 『殉愛の章』ディレクターズカット版DVDが手元に届いてから、儂は二度『殉愛の章』を観た。
 宇梶が撮り直したということで、再び見た『殉愛の章』は劇場と同じではないが、それを差し引いても儂は悪くは思えなかった。専業の声優と比べても阿部寛は結構巧く、柴咲コウに至っては可成り巧いと感じた。批判多き宇梶剛士も皆が云う程悪くない。皆の批判は過剰だと思う。
 但し一つ気付いたことがある。どうもこの三人、演技が専業の声優に比べて普通だ。
 普通を表現するのは難しいが、何というか、台詞に対する気息の配分、音の強弱、抑揚などが専業の声優の演技に比べて温和しく、やや抑制的、やや淡泊に感じた。なのに吐息、鼻息に餘り頓着ない為か、妙に唾液の潤いや口内の粘りを感じ、専業の声優の声に比べると随分生々しい。この声の所為か、台詞の度、ちらちらと声の主の素顔が脳裏に浮ぶ。スクリーンのラオウ様が宇梶剛士に、ケンシロウが阿部寛に、レイナが柴咲コウに見えた。専業の声優にはないことだ。
 顔を見ずして声を聴けば、誰でも声に似合うた顔を想像するものだ。だが、声優の声は役に似合うように作る。内海賢二はラオウ様やブライキング・ボスのような巨躯の敵役に似合う声を発する一方、サミー・デイヴィスjrのような明るく小柄な黒人も演じられた。その声からは決してあんな塩豆みたいなオッサンは想像出来なかった。塩沢兼人はマ・クベに似ていたが、レイの如き美男を演じることも出来た。その時視聴者は誰もマ・クベの顔など想像しなかった。神谷明なんて實は鶏ガラみたいなオッサンだがケンシロウも冴刃遼もキン肉スグルも演じることが出来た。声を聞く限りあの鶏ガラみたいな顔は想像出来ない。それだけに神谷明の素顔を見た時は四代目柳亭痴楽以来の衝撃を受けた。
 それ故専業の声優さんがテレビ番組で顔を曝して出演するとつい笑ってしまう。餘りに顔と声が似合わぬので、その落差が辛い。十五年くらい前に今田耕司と東野幸治がラジオ番組で「声優さんのイベント、凄いで、知らん顔のオッサンオバハンが知ってる声で喋っとんねん」と云うていたことを思い出す。特に古谷徹とたてかべ和也が凄まじい。凄絶を窮める面白さだ。これだけ乖離しているからこそ、専業の声優は様々な役を演じられるのだろう。
 その意味で三人は声優足り得なかった。宇梶剛士、阿部寛、柴咲コウの声は餘りにも本人に似ている。声を聞けばすぐに素顔が浮ぶ。その個性故、三人は人気俳優、人気女優になれたのであろうが、それは声優としては忌むべき缺点だ。宇梶剛士の声はラオウ様より宇梶剛士、阿部寛の声はケンシロウより阿部寛、柴咲コウの声はレイナより柴咲コウに似合うていた。声優たるもの、声が役より本人に似てはいけない。

 だが、それでも儂は別段それが悪いようには思えない。

 何故なら『殉愛の章』のキャラクタデザインは窮めて宇梶、阿部、柴咲に似せてある。素顔と役の顔がそう違わぬから、別に素顔を思い浮べても障碍にならぬのだ。現に『殉愛の章』を劇場で見ていて、最後の方、儂はラオウ様をラオウ様ではなく宇梶剛士として見ていた。ラオウ様が拳王軍に号令し、聖帝軍に突撃する処で、儂は隣にいた友人に呟いた。

 あれ、ブラックエンペラーよな。

 公開前、今村隆寛監督が「実写のつもりで撮った」と云うていた。
 見て明らかなように「実写のつもり」とは「アニメに見えないリアルな映像」という意味ではない。黒王号の表現など明らかにアニメ的である。「リアルな映像」を目指すなら、もう少しやりようがある。
 「実写のつもり」とは恐らく演出方法のことだ。舞姫が水飛沫を散らして踊る場面は完全にアニメ的な演出で不自然だが、他の場面は何処も随分温和しい。餘りアニメアニメしていない。およそ実写で出来る程度の演出で抑えてある。故にアニメを苦手とする儂が九十五分も耐えられたのやも知れぬ。儂はアニメ的な演出が苦手なのかも知れぬ。
 アニメ的な演出を抑えるなら別にアニメで作る意味はない。精々拳王軍及び聖帝軍を演じるエキストラ、世紀末の風景を作るセットなどを気にしなくてもよいくらいしか、アニメの利点を生かしていない。「実写のつもりで撮った」とは、或いはこのことかも知れぬ。アニメである利点を自ら捨てることで映像を実写的に演出したのかも知れぬ。
 ならば、そのような作品でラオウ様が宇梶に、ケンシロウが阿部に、レイナが柴咲に見えて何の不都合があろうか。実写的に演出したいなら、今村監督はラオウ様を宇梶に、ケンシロウを阿部に、レイナを柴咲に見せたかった筈だ。だからラオウ様のキャラクタデザインを宇梶に似せ、ケンシロウを阿部に似せていたのだろう。其処まで思わずとも、そう見えても構わなかったに違いない。宇梶の声で号令されちゃ、普通、観衆は拳王軍とブラックエンペラーを結びつけるだろう。それを覚悟、或いは承知、若しくは望んでいた筈だ。
 そう考えると、あの三人のあの演技はあれで正しかった。監督の要望通りに演じられたのだから、あれが気に喰わぬなら、それは声優が気に喰わぬのではない。監督の狙いが気に喰わぬのだ。三人が責められる筋ではない。それに監督の意図が其処にあるなら、寧ろ浮いていたのは他の声優の方だ。現にリンの演技は変だった。本当に出番が少なくて良かったと思う。

 勿論、儂の解釈が正しいのなら、多くの観客に伝わらなかったのであれば、監督の企みは失敗しているわけだが、それはそれでよいではないか。押井守みたいに誰にもサッパリ解らんアニメ作って評価が高い監督もいる。あれに比べりゃ、何と比べたって、随分判り易い方だろうよ。

跋文*13

 これを書くのに随分時と銭を費やした。『殉愛の章』については何か書かないと…と思いながらもテーマが決らず、漫然と資料を集めながら、どうしよう、何を書こう、と迷うていたが、2006年末頃、カサンドラチャットにてべーダック殿と意見を交換、不意に声優を柱に『殉愛の章』を語ろうと思い立ち、それまで何となく集めていた資料を再読、公式サイトやwikiで声優の経歴、出演作品を確認しながら都合七日がかりで書いた。最初はもっと分量があったのだが、余計な部分を更に二日費やして削り脱稿、そこそこ読み易くまとめられたと思う。

追記*14

 『ユリア伝』を見たら想像以上にデビッド伊東が巧くて吃驚、その上『蒼天の拳』で大川中将を演じた角田信朗も滅茶苦茶巧く、『激闘の章』での赤鯱に向けて安心出来たが、尚のこと「専業の声優ってなんだろう」との想いを深めた。

aside

*1
*2
 『トイ・ストーリー』日本語版にてウッディ役に起用され、無事吹替え作業を終えた山寺宏一であったが、公開直前、ディズニー側から「無名な声優じゃなくて有名人の方が話題になるやろ」というわけで降板、ウッディ役は急遽唐沢寿明に充てられることになった。それで山寺は一念発起、ならば有名人にならん、と様々な仕事で活躍するようになったという。えらい。
*3
*4
*5
 1980年頃世間を賑わせた巨大暴走族。餘りの巨大さに歴史も規模も曖昧だが、だいたい二千人くらいいたそうで、関東の組織だったがその威名は遠く泉州堺に住う小学生〜中学生の儂の耳にも届いていた。
 若い子には解らないかも知れないが、当時暴走族といえばブラックエンペラーで、昨日今日あるチンケな暴走族とは随分違う。一種の時代風俗で、それ以降の暴走族は今日に至るまで全てブラックエンペラーの劣化コピーというても差支えなかろう。
 宇梶剛士はブラックエンペラー七代目総長を務めたそうな。喩え暴走族といえど二千人を率いるとなれば並大抵の器量では務まらぬことだったろうと思う。好むと好まざるに関わらず、やれと云われて誰もが出来ることではない。その意味で宇梶剛士は実在した拳王様であったと云える。七代目、という数字も奇縁と云えよう。
*6
*7
 米国産アニメの台詞をそのまま訳して吹き替えても日本人にはさっぱり解らないので、この当時は画面の雰囲気から適当に即興で台詞を充てていたのだそうな。翻訳が出来ない、という事情もあったと思う。『トランスフォーマー ビーストウォーズ』でもそんなことがあって評判を取りましたね。流石千葉繁、即興の人、とまたリスペクトだ。
*8
 個人的感想だが、『じゃりんこチエ』のお笑い芸人が充てた声が實に佳く、それ故儂は「専業の声優ってなんだろう」と疑いを抱いている。
*9
 この発言に激怒し猛反論したのが、声優界の英雄永井一郎である。何せ大阪は池田出身で京大卒、大阪人で賢者、当然辨が立つ。内容の詳細は知らないが、散々に論破したそうな。
*10
 1988年、永井一郎は『オール讀物』の記事「磯野波平ただいま年収164万円」にて声優の出演料の安さについて世に訴えた。更に2004年には内海賢二、野沢雅子らとともに声優三百六十人を率いて出演作品がビデオ化DVD化された際の使用料支払いを制作会社に求める訴訟を起こして勝訴している。
 この時のことはよく憶えている。永井一郎の戦闘力が遺憾なく発揮された裁判だったのだろうなぁ、と思う。確か『ごきげんよう』だったかでも、野沢雅子、田の中勇なども如何に声優の収入が少いかを、半ば怨みを込めて述べていたことを憶えている。
*11
 あれは「いつまでやるんだ?」という商売とは違う興味で客を引く処もある舞台なので、あれを基準に考えちゃいけない。森光子のキャラクタがあれを成立たせているが、本来あれは可成りグロテスクな配役である。
 また、舞台という世界も特殊である。完全なモンゴロイドがカツラ被ってコーカソイトを演じる。女が男を演じて「愛〜それは〜気高く〜」と歌う。あれはああいうものなのだと納得するよりほかない。あれこそ特殊と見るべきであろう。
*12
 『機動戦士ガンダム』でブライト・ノア役を演じた鈴置洋孝は、その七年後、再び『機動戦士Zガンダム』で同じブライト役を演じることになった。『Zガンダム』は『ガンダム』の続編で、作品の世界の中でも七年経っているという設定だった。
 鈴置はこの時、演技をどうしようか迷って、監督の富野由悠季に尋ねたそうである。富野は、作品の中でも現実でも七年経ったんだから、七年経ったように演じて、と指示したという。
*13
2007/01/28.追記
*14
2007/03/17.追記

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