私もケンもレイもバットも
何語で話してたんでしょうね

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
アル伝

修羅アルの伝記


アル伝

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名称・呼称不明
渾名・異名不明
通称・仮称ないアル修羅/中華風修羅/中国風修羅/アル男/アル/..etc
初登場『北斗の拳』第172話「はるかなる呼び声!の巻」
所属修羅の国
拳法・闘法不明
身分・階級修羅/領主
属性・分類修羅/ザコ
断末魔アイヤ〜〜/ないあるないあるないあ/るないあるない〜〜〜〜〜〜/ひょんげ〜!!/ぶ(JC:20:035)

続き

メモ*1

アルについて

 第三の羅将ハンの居城を探すケンシロウにいびり殺された修羅。どの程度の範囲かは判らないが「この地治める/修羅アルよ!!」と云っているので、それなりの身分の修羅であるらしい。仮面もしていないことから恐らく名が許されており、ケンシロウにいびり殺されはしたが決して弱くはないのだろう。相手が悪かっただけだと考えられる。

『北斗の拳』作中最も理不尽な死

 どうやら領地を巡回中に襲われたらしく、爆発する自動車から「アイヤ/〜〜〜!!」と放り出されながら登場、ケンシロウに顎をむんずと掴まれ「羅将ハンの居城は/どこだ!?」と訊ねられたが、「しっ知らない/アルよ!!」と答えた。この時この修羅は視線を右上に泳がせながら「知らない」と答えている為、先づ間違いなくしらばくれている。
 勿論それが判らぬケンシロウではなく、大破した自動車の残骸に顔面を叩付け、「あるのか/ないのか/どっちなんだ」と意地悪に問う。然し修羅は「たっ たからっ/知らないアルヨ〜」と答え、また自動車の残骸に打付けられる。この修羅は語尾に「〜アル」をつけないと話すことが出来ないらしいのだ。古典的な「中華風」である。
 結局「ないない/あるよ」「アイヤ〜〜/ないある/ないあ/るないあるない〜〜〜〜〜〜」と不自由にしか答えることが出来ず、逃走しようとして破裂死した。
 その直後、ケンシロウは振返って「あれか…」とハンの居城に向かって歩き出した。最初から城が見える位置でこの修羅を捕まえていびり殺していたのである。故に『北斗の拳』作中で最も理不尽な殺され方をしたザコとの呼び声が高い。

北斗神拳臨済禅説

 この修羅の死はケンシロウの意地悪さ、残虐性を示すエピソードとして論じられることが多い。然し北斗神拳が仏教由来の拳法であること、ケンシロウがその伝承者であることに留意してみれば、このエピソードを公案として読むことも可能である。

 公案とは主に臨済禅に於いて修行者が悟りを開く為に課題として与えられる問題のことで、所謂禅問答のことだ。「隻手の声」や「祖師西来意」などがよく知られる。まとまった形では『無門関』『臨済録』『碧巌録』などが手に入りやすい。殆どの公案は門外漢から見ると不条理ギャグとしか思えないものだが、この不条理を会得することがどうやら禅の悟りらしい。普通に読むと先づ意味が解らない。

 処で、公案のエピソードに登場する祖師、禅師、修行者の多くは実にエキセントリックでヴァイオレンスだ。兎に角よく人を殴る。師匠が弟子を殴れば、弟子も師匠を殴る。殺生も当り前にある。まるで暴力が禅だと云わんばかりによく人を殴る。臨済禅はよく人を殴るのだ。そして殴られた者が「たちどころに悟ってしま」う。何故殴られて悟るのか? 公案はこのように問いかける。
 北斗神拳は仏教である。その伝承者ケンシロウを禅師であると考えれば、ケンシロウは敵を殴っているのではなく、敵を悟りに導いていると考えることが出来る。サウザーやカイオウなどは将にケンシロウに殴られることで「たちどころに悟ってしまった」。数々のモヒカン、悪党、野盗どもも、ケンシロウに殺されたのではなく悟りに導かれたと云える。
 ではこの『北斗の拳』作中で最も理不尽とされるこの修羅の死を、仏教ではどのように解釈出来ようか?

 仏教の要諦は「中道」で言表わされる。初期仏教では「苦楽の中道」といい、享楽に耽るでもなく、苦行に耽るでもなく、その中を行け、というものであったが、大乗仏教に至り「有る」にも「無い」にも偏らぬ「二辺の中道=空」を悟りの奥義とするようになった。「空」とは「から」ではなく「未確定」「未分別」「主客未分」を意味する。
 即ちケンシロウの「あるのか/ないのか/どっちなんだ」は有無の二辺を超克し「未確定」「未分別」の境地=悟りに導く公案として読むことが出来るのだ。そして修羅は「たっ たからっ/知らないアルヨ〜」と答え、次の瞬間「はっ!!」と気付くのである。そしてケンシロウはもう一度「どっちなんだ/あるのか/ないのか」と問い、修羅は「ないない/あるよ」「アイヤ〜〜/ないあるないあるないあ/るないあるない〜〜〜〜〜〜」と有無の二辺を超克する。
 続く「ひょんげ〜!!」はこの修羅の悟りを証明する歓喜の声だ。大乗仏教の悟りは「言語不可得」と謂われている。悟りは言語を超越しているのだ。この修羅に限らずケンシロウに殺されたザコたちの最後の言葉の多くが意味不明であるのは、ケンシロウに殴られたことで悟りの境地に至ったが故に言語を超越してしまったからだ。
 そして最後の「ぶ」であるが、これはパーリ語で「悟り」「目覚め」を表す「but」である。この修羅はケンシロウに殴られることで「目覚め=but」たのだ。この「目覚めた者」のことを「仏陀=Buddha」と呼ぶのである。
 そんな修羅がどうして爆発するのか? ブッダが爆発するのは当り前ではないにしても、そんなに珍しいことではない。御釈迦様の十大弟子のひとり阿難尊者は自らの意思で空中爆発して死んでいる。悟りを開けば爆発死どころか空も飛べるらしい。
 最後にケンシロウは「あれか…」とハンの居城に向かうが、この描写の意図する処は明らかだ。ハンの居城は即ち悟りの境地、涅槃の隠喩である。このハンの居城はケンシロウが修羅に場所を訊ねたすぐ近く、振り返ればすぐに見える位置にあった。即ちこれは仏教の悟りが特別なものではなく当り前の日常の中に秘められていることを意味する。大乗仏教のこのような考え方を「仏性」「如来蔵」と謂う。「未確定」「未分別」である「空」は「空虚」だが、同時に全ての可能性を秘めた状態である。故に大乗仏教ではあらゆる生類が悟りを開く可能性を認める。だからケンシロウはモヒカンや修羅を殴って悟りに導くのである。

 ………いったい儂は何を書いているんだ。

aside

*1
 本記事は1998年から2004年まで執筆掲載していた『北斗人物列伝』の再編集掲載記事です。2004年にサイトを改装している最中にHDDがクラッシュし、全てロストしたと思っていましたが、別のHDDに取っていたバックアップを2011年三月に発見したので、少し手を加えて再掲することにしました。

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