今回は別に
飛ばしても大丈夫なんだけど

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比較方法検討


比較方法検討

『北斗の拳』では前例がない

 『北斗の拳』三十一篇をどのような方法で比較するべきか。
 儂は1997年からwebを巡回しはじめ、『北斗の拳』に関わるwebサイトの掲載論文をだいたい読んでいる筈だが、類する考察に当ったことがない。どうやら誰もやったことがないのだろう。お蔭でどのような方法が適切か、儂が考えねばならぬらしい。論文だから先行する研究の検討からはじめたかったが、『北斗の拳』ではそれも出来ぬようだ。
続き
 抑も『北斗の拳』をきちんと論じた文を儂は殆ど読んだことがない。それは『北斗の拳』が筋肉にまつわる物語故、『北斗の拳』に感化された者の殆どが空手か少林寺拳法に流れてしまい、血の滾り、猛る魂でのみ語られてしまうからだろう。その反応こそが『北斗の拳』から生じた正しい結果なのだが、その分『北斗の拳』を語る言葉は未熟なまま放置され、人気に比して評価されぬ。書籍を探しても、松本孝幸『やわらかな未知のものがたり 現代<表現>論』*1の中に少し記述が見付かる程度である。然もこの書籍、論と銘打ってはいるが『北斗の拳』に関する限りは殆ど感想文に等しく、それがまた甚だ面白くない。この松本何某なる男が己の思想に援用する為『北斗の拳』を使うただけのこと、『北斗の拳』の如き純粋な娯楽作品を、よくもまぁこんな厭な形で使えたものである。この松本孝幸のことは後でゆっくり馬鹿にしてやろう。

 話が横道に逸れた。閑話休題。
 つまり『北斗の拳』を読み解く論の前例がないに等しい。従うて読み解く方策もまた未開発である。前例がない以上、儂が考えねばなるまい。

『北斗の拳』らしいパターン

 儂は先づはじめに『北斗の拳』らしいパターンを思い浮べて紙に書出してみた。『北斗の拳』全篇に共通する粗筋は、だいたいこんな感じであろう。即ち、旅するケンシロウ、困窮する人、巨大な暴力、助けるケンシロウ、憐れを誘う状況、それを蔑ろにする暴力、ケンシロウが怒る、そして勝つ、然し失われたものは大きい…、旅立つケンシロウ。これに、ケンシロウが一度は敗れるとか、敵にも哀しき秘話が…、みたいな例外が加わる。細かな異同はあろうが、およそ誰に聞いても『北斗の拳』らしいパターンと云えばこのような感じだろう。
 流石に未開発である。これだけでも重要なことがひとつ解る。

ケンシロウが勝っても負けても結果は同じ

 ケンシロウは三十一篇で都合五度負けている。即ち「KING篇」の回想でシンに一度、「拳王様御出馬篇」でトキが到着する迄にラオウ様に一度、「聖帝サウザー篇」の回想でシュウに一度、同じく「聖帝サウザー篇」でリョウが死んだ直後サウザーに一度、「ジュウケイ無残篇」で暗琉霏破を喰ろうてカイオウに一度である。
 『北斗の拳』らしさを考える時、儂を含めだいたいの人はケンシロウの無慈悲なまでの強さを思い浮べると思う。そのケンシロウが負けるというのは、如何にもらしからぬ出来事で、例外中の例外と云える。普通、このようなことになると、それ以降は普段と全く異なる話になる筈である。最悪を考えれば、ケンシロウが死ぬとか。
 処が『北斗の拳』はそうはならない。それどころか負けても何も変らない。負けても結果が変らぬというと、まるで負けても損しないというように思うかも知れぬが、そうではない。逆である。寧ろ普段勝っているのに何も得していないことが解る。
 例えば「KING篇」でケンシロウはシンに敗れてユリアを奪われる。此処で勝っていたなら、ケンシロウはユリアを奪われず、従うてこの後ユリアとケンシロウは死が二人を分つまで仲睦まじく平穏に暮した筈である。処が「ユリア争奪篇」でケンシロウはラオウ様に勝ちながらユリアをラオウ様に奪われてしまう。これはリハクの罠が拙い時に作動してしもうたが故であるが、それは問題ではない。重要なのは、勝っても負けてもケンシロウがユリアを奪われたということだ。
 『北斗の拳』は架空の物語である。事実ではない。故にその場その場のことは作者の自由である。但し『北斗の拳』は連載作品だ。次の話のことがある。其処で作者は先の展開を用意する為にその場を描写する。その場合、シンの勝ちとラオウ様の負け、どちらが大事であったかと考えると、断然ラオウ様の負けが重要である。シンの勝ちは、別に紙幅が許せば、例えば勝ったのにシンの卑怯な仕業でケンシロウは…という描き方も出来た。つまりこの勝ち負けは實はどちらでもよかったのだ。大事なのはこの後ユリアが奪われるという事件である。ユリアさえ奪われれば、ケンシロウの勝敗は問題ではない。
theology01-02.gif その証拠が左図である。左図はシンとラオウ様の物語が殆ど同じ道筋を辿っていることを示している。如何に先の勝敗が物語の大筋に関わっていないかがよく解るだろう。違いはただ一箇所、死んだユリアが甦生するか否かのみ、これもまた重要ではない。大事なのはユリアの死乃至甦生が明らかになってシン乃至ラオウ様が自害し、その埋葬の後、ケンシロウが旅立つことにある。
 勿論、ケンシロウはシンに負けたが故に強くなり、ラオウ様はケンシロウに負けたが為に愛を知る機会を得た。ユリアが死んでいたが故に結末は虚しく、ユリアが甦生したが故に結末には晴やかだ。それは間違いない。然しそれによって物語がどう変化したかというと、味わいが変ったに過ぎぬ。豆腐を山葵で食うか生姜で食うかくらいの違いでしかない。山葵や生姜が豆腐そのものを変えるわけではない。ただ味わいを変えるに過ぎぬ。
 我々読者はケンシロウの勝敗、ユリアの生死の方に目を奪われがちである。大概の読者はこれに耳目を奪われ、来週はどうなるのだろう、どうなるのだろう、と掌中の百八十円を温めながら、月曜乃至火曜を待焦がれた筈だ。然し二百四十五話終って振返ってみると、この変化は物語に何も影響しなかった。即ちこれは枝葉末節のことで、『北斗の拳』らしさ、『北斗の拳』の物語を形作る要素は揺るぎなく変化しない箇所に宿っている。左図の例でいうと、ユリアが奪われ殺されるが實は生きていたり、ケンシロウと再戦して敗北し、ユリアの為に自ら命を絶ち、その死を悼んでケンシロウが埋葬したり、というところだ。この揺るぎなく変化せぬ『北斗の拳』という樹木の幹をこそ見極めねばならぬ。

『北斗の拳』らしさのモデル化に失敗

 この『北斗の拳』の幹という喩えを思いついた時、我ながらよく出来た喩えだと思うた。というのも、樹を愛でる時、人は枝葉を愛でるが、その樹の真の値打ちは幹にあるからだ。儂はその幹について論じねばならない。

セフィロトモデル

theology01-02-2.gif この幹について、儂ははじめ窮めて簡単なモデルを考えていた。それが左図「セフィロトモデル」だ。見ての通り「セフィロトの樹Sephirothic Tree」*2とそっくりに作っている。これはモデルをどうするべきかと何気なく考えていた時ぱっと頭に浮かんだ図で、恐らく"幹と枝葉"という喩えと「セフィロトの樹」が結びついて閃いた。多分グレマスの「行為者モデル」と融合している。「行為者モデル」については章を改めて詳しく説明する。
 勿論これは儂が好むオカルティックな冗談である。信じていないが好きなので、よくこういう冗談を思うて一人で愉しんでいる。これを紙に書いた時も、はははと笑うて一度棄てようとした。だがこれがぱっと浮んだ割になかなかよく出来ていて、棄てるのが惜しくなった。面白いし、どうにか使えぬものかと、棄てる手をとめて、考えてみた。
 この図は下から読む。「荒野」は『北斗の拳』の世界の背景である。街や村もあるにはあるが、基本的にケンシロウが旅する道程は「荒野」であり、緑豊かな森や山々が描かれることはない。これを大前提として、先づ物語の発端で物語の中心となる者は何かを「喪失」する。リンなら両親及び声、ケンシロウならユリアという工合だ。そしてその「喪失」を巡って「暴力」と「拳法」が対立する。ジードやジャッカルからシン、サウザー、ラオウ様までが属する「暴力」は力を振うて破壊を恣にし、ケンシロウ、レイ、シュウなどが属する「拳法」はその「暴力」を人間性や掟などで拘束しようするが、はじめは「拳法」が劣勢である。その二者を「病者」が仲介する。力を制限されている者、衰える者、不自由な者のことで、物言わぬリン、老人であるミスミ、吐血するトキ、盲目のシュウ、割腹したリュウガ、病を得たユリアなどがこれに属する。この「病者」を介して「暴力」から「恐怖」が生じ、「拳法」から「哀情」が生じる。「恐怖」と「哀情」は表裏一体のもので、「暴力」から見ると「哀情」は怖ろしく、「拳法」から見ると「恐怖」が哀しく見えることもある。やがて「暴力」は「恐怖」を伴う「支配者」に至り、「拳法」は「哀情」を伴う「救世主」となって対立、するとはじめに「喪失」していた「愛」が現れ、それを巡って戦うに至る。「支配者」はラオウ様やサウザー、「救世主」はケンシロウやレイ、「愛」はユリアやリンとして描かれる。この「愛」の象徴は「病者」が導くか、或いは予見するか、「病者」と同じであったりする。「病者」と同じ場合はその病が除かれる、或いは問題にならない程度になる。一見ケンシロウが「拳法」→「哀情」→「救世主」の柱に常に鎮座するように見えるが、ラオウ様御帰天以降、ケンシロウは「暴力」→「恐怖」→「支配者(侵略者)」のサイドに遷り、ジャコウ、カイオウが「拳法(律法)」→「哀情(憎悪)」→「救世主(創造主)」に座る。
 この図は見た目が美しいだけでなく一目である程度内容を推測出来るので気に入っている。然も各要素の意味が本物のセフィロトと正反対になっている処が我ながら面白いと思う。例えば「荒野」は本当のセフィロトでは「マルクトMalchut」と謂い、物質的な住処である「王国」を意味する。「喪失」は「基盤」を意味する「イェソドIesod」、「暴力」は「栄光」を意味する「ホドHod」、「拳法」は「勝利」を意味する「ネツァクNetreth」、「病者」は「美」を意味する「ティファレトTiphreth」という工合だ。特に「ティフェレト」は全ての生物に生命エネルギーを供給するセフィラーである。それをよりによって「病者」にしている辺り、本物のカバリストが見ると怒るかも知れない。
 この「病者」の位置が我ながら慧眼である。よくぱっと閃いたものだ。というのも、『北斗の拳』の物語の起点に位置する者は、ただ単に女、単に人質というわけではなく、肉体及び精神に何らかの缺陥、缺損を持っていることが多い。ケンシロウ、ラオウ様ほどの力を持つトキでさえ病を生じ、南斗六聖拳の一であるシュウも盲ていた。この缺陥、缺損故にケンシロウは戦いに誘われ、『北斗の拳』の物語に対立が生じるのだ。その意味では、「病者」は生命エネルギーこそ供給しないが、戦う理由、対立の切缺を与えている。見事に「ティフェレト」の機能を果していると云えよう。
 『北斗の拳』三十一篇と比較してみると、實にこれがどの篇にも沿うて、どの篇でもすっきり説明出来た。これはいきなり答えを見付けたな、と思うた。
 処が程なくこれが失敗であることが解った。何が失敗かというと、普遍的すぎるのだ。困ったことに『北斗の拳』以外の物語をも説明してしまう。つまりこれは『北斗の拳』ではなく『北斗の拳』を含む全ての物語の内の何割かを表せる図なのだ。
 抑も「セフィロトの樹」は世界の観念な構造を具象化したモデルである。だから如何に神秘主義者の作とはいえ、何にでも合うようによく考えられている。それを素にしたのだから、よく出来ていて当り前だ。増してグレマスの要素まで盛込んでいる。何にでも合うに違いない。物語論に用いるモデルとしてはよく出来ているかも知れぬが、『北斗の拳』を解き明さんとする儂の用にはとても足りぬ。完全な失敗作だ。

分岐モデル

theology01-02-3.gif そこで次に左図「分岐モデル」を考えた。これは素直に上から下に読むのだが、出発点がふたつある処に工夫がある。その篇より過去にケンシロウが「勝利」しているか「敗北」しているかを問い、どちらにしても「喪失」を免れぬことを表し、例えば「KING篇」のケンシロウは過去にシンに「敗北」してユリアを「喪失」し、「拳王様御帰天篇」ではラオウ様に「勝利」しながらユリアと視力を「喪失」していることを参考にした。「充足」はジョニーの店やマミヤの村に寄る環境を、「缺乏」は荒野を旅して食料にも水にも事缺く環境を示し、その状態で「病者」と出会うことで戦場に「誘引」されるか「拘束」される。「誘引」はケンシロウが「聖帝サウザー篇」でシュウの叫びに応える、「拳王様御帰天篇」で黒王号に跨り練気闘座に迎えられるなどを表し、「拘束」はケンシロウが文字通り捕縛されていたり、「牙一族篇」でアイリとマミヤを、「カサンドラ篇」でトキを助けようとすることを表す。その後、ケンシロウは何かに「覚醒」して必ず勝利するが、その際、敵を北斗神拳の利によって圧倒する「拳法」か、何らかの秘密が明らかになってケンシロウの優位に傾く「開放」を中継することがある。その後ケンシロウは「旅立」つ。
 これは先の「セフィロトモデル」より随分具体的に『北斗の拳』を説明出来るのだが、問題は「充足」「拘束」「開放」に例外が多く、何故その例外が生じるのかを説明出来ないことだ。三十一篇と比較し修正しながら出来たモデルなので、例外にも朧気ながら一貫した特徴はあるものの、如何せん言語で説明するには煩雑に過ぎ、明解な説明が出来ない。とても満足出来る出来映えではない。所詮「セフィロトモデル」の域を出ない。これも失敗作である。

教訓:手間を惜しむといけない

 この他にも幾つかのモデルを考えたが、全て失敗であった。儂は先づモデルを用意し、それに修正を加えることで『北斗の拳』のモデルを抽出しようとしたのだが、その方法じたいが間違うていたようだ。朧気ながらも脳内にモデルがあるのだから、それが一番手取り早いと思うたのだが、矢張り手間を惜しむといけない。
 何処で間違うたのだろう。はじめに『北斗の拳』らしいパターンを紙に書出した辺りでは多分間違うていない。いけないのは恐らくその後だ。『北斗の拳』らしいパターンを紙に書出した後、モデルを提示したが、此処に飛躍がある。パターンからモデル提示が結びついていないのだ。ただの直感である。はじめに「ケンシロウの勝ち負け」の如き分岐と「ユリアを奪われる」の如き「結果」に関係ないことを気付いてしもうたことで、朧気にモデルを思い浮べ、これを恣意的に『北斗の拳』の物語と結びつけてしもうたのが悪かった。多分『北斗の拳』らしいパターンと思うものはそれ程間違うていないが、それはそれとして、『北斗の拳』三十一篇をきちんと手間を惜しまず一々突合わせて比較し、確かな描写に裏打ちされた揺るぎないパターンを抽出せねばならなかった。

aside

*1
*2
 カバラにおいて精神界を表した図形で、 「生命の樹」とも謂う。四段階に分けられる十のセフィラー(球)と二十二の径から出来ており、茎は数価を持つヘブル文字と対応している。『北斗の拳』とは関係ない話なので後は省略する。別の機会に処を改めて書くかも知れない。

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