ケンシロウの蔭が薄い…

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三十一篇全比較 16.ユリア争奪篇 121-130話(全10話)


三十一篇全比較 16.ユリア争奪篇 121-130話(全10話)

 「天翔る天狼篇」がリュウガの一人称だったように、「ユリア争奪篇」は實はラオウ様の一人称で綴られている。ジュウザが死ぬ時から物語の視点はこっそりラオウ様に遷っていたのだ。だから序破急、起承転結、どちらを見てもラオウ様を描いてはいない。ラオウ様の目を介してケンシロウの強さを描いている。
 人はラオウ様を"影の主人公""裏の主人公"などと呼ぶが、その由縁は将にこのラオウ様視点に拠る。何故なら普通の作品はボスキャラの強さを描きこそすれボスキャラから見た主人公の強さを描きはしないからだ。特に最終決戦前である。普通の作家は"最強のボスキャラに挑む主人公"を描きたがる。それを"最強の主人公に挑むボスキャラ"で描いてしまうのだから尋常ではない。最早主人公とボスキャラの立場が顛倒してしもうている。
 つまりこの篇以降の主人公はラオウ様なのだ。
 こういうボスキャラを描いた例は餘りない。儂は寡聞にして『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルくらいしか思いつかない*1。時代のものなのか、武御大と富野由悠季が共有する世代文化なのか、このラオウ様の変化は實にシャア・アズナブルに似ている。最早ゲルググに乗ってさえガンダムに及ばなくなったシャア・アズナブルが死んだララァ・スンに「私を導いてくれ」と云うが如く、不敗の拳"天将奔烈"さえ通じなんだラオウ様が「ユリア、私を導いてくれ」とばかりにユリアを殺害し、シャア・アズナブルが「私にも見える!」と云うたが如くに同じくラオウ様にも"無想転生"をまとう…という工合だ。
 シャア・アズナブルとラオウ様の比較は別に章を立てて詳しく行う為、此処では細かくは触れないが、ラオウ様がシャア・アズナブルと比較し得ることは、儂にとっては重要である。何故なら此処にボスキャラが裏主人公になる道筋が見えるからだ。要は強くなり過ぎた主人公はボスキャラになるしかなく、主人公に負けて尚生き存えたボスキャラは主人公的に振舞うしかない、ということなのだと思う。これを基準に見渡せば、描き方は違うが『DRAGON BALL』のベジータ、『DRAGON QUEST ―ダイの大冒険―』のハドラーなど、類似例を探せば意外にいる。ただ、最後まで主人公と敵対しながら…という例はラオウ様とシャア・アズナブル*2くらいしか知らない。

続き

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  • 序:ケンシロウとユリアの逢引き
  • 破:ラオウ様、ユリアと邂逅
  • 急:ケンシロウ、ラオウ様を追跡

 この三枚でこの篇の筋はおよそ明らかだ。ケンシロウがユリアよりラオウ様を優先し、思い掛けずラオウ様がユリアを得て、ケンシロウが追う、という簡単な話である。つまりユリアがケンシロウを追い、ケンシロウがラオウ様を追い、ラオウ様がユリアを追う三つ巴の鼬ごっこを演じているわけである。その上で"居ないユリア"がケンシロウを望む序と"居るユリア"がラオウ様を怖れる破が対を成し、ラオウ様とケンシロウを対比し対立を暗示する構成は巧い。
 ケンシロウ視点で物語を追うと、實はこの時点でまだユリアは蘇生していない。死者のままである。一方ラオウ様にとってユリアは最初から死者ではない。でなければ幾らジュウザの死から南斗最後の将の正体を読取れようか。脳裏に浮んだとて「いや、ユリアは死んでいる筈…」と考えるだろう。このことから、ラオウ様はユリアの死を御存知なかったか信じておられなかったことが判る。だから南斗最後の将の正体をお察しになられた。それが物語の上で暗示的に"居ないユリア"と"居るユリア"とに分けて描かれたと読めば、實はこの時点ではユリアはまだ死んでいた。ユリアが蘇生するのは次篇、ラオウ様が敗北を認めてからだ。
 このケンシロウとユリアの関係から、儂はギリシア神話の「オルペウスとエウリュディケ」を思い出す。有名な話なので御存知の方も多かろうが、念の為あらすじを記すと、毒蛇に噛まれて死んだ愛妻エウリュディケを取戻さんと冥界に降りたオルペウスが、その見事な竪琴の腕で冥界の王ハデスと妃ペルセポネに妻の返還を認めさせるも、「妻の手を引き冥界から出るまで決して後ろを振返ってはならぬ」という条件をあと少しという処で果たせず、つい振返った為に永遠に妻を失うた、という典型的なギリシア悲劇である。この篇のケンシロウはいうなれば"振返らなかったオルペウス"であった。故に次篇でエウリュディケ=ユリアを取戻すことが出来た。

  • 起:ラオウ様察知→ユリア投身の真相→ラオウ様来襲→トウ自殺→ラオウ様対リハク
  • 承:ケンシロウ選択→ケンシロウ圧倒→無想転生→ラオウ様恐怖→ラオウ様覚悟
  • 転:ユリア拉致→拳王の名はいらぬ→鬼のフドウ→フドウ改心→ラオウ様対フドウ
  • 結:ラオウ様圧倒→ジャドウ→フドウ不屈→ラオウ様敗北→フドウ臨終

 起でユリアの"死の真相=過去"と逼る"死の予感=未来"を、承でラオウ様を凌ぐケンシロウを、転でラオウ様がケンシロウを再び超える為の戦いを、結でラオウ様の二度目の敗北とケンシロウの強さの謎解きを描いている。
 この篇は明らかに前後に分れており、本来であれば儂は第百二十六話「魔王への犠牲!」を境目として前後二篇に分けるべきだった。然しそうすると百二十五話までの顛末が一篇にまとまらず、要約出来ぬ呈のものになってしまうので、仕方なく前後二篇に分れてしまう話を一篇としている。だが、前後に分れていても内容は一貫しており、内容としては分ける必要がない。
 この篇の前半はサウザー以来ラオウ様を超えていたケンシロウをラオウ様の目から描いている。これは「天翔る天狼篇」でリュウガが確信したケンシロウの勝利を追認しているに過ぎず、本来であれば餘り面白い話ではない。然し我々読者は予め知らされていたことではあるけれども、それはケンシロウ視点でのことであって、この篇はラオウ様視点から描いてある為、それに従うしかない読者は予め知っていることであるにもかかわらず、ラオウ様と同調し、ラオウ様と同じように驚くよう仕組まれていたので、我々読者は予め知っていたことを気にせず面白く読むことが出来た。
 後半はケンシロウにあってラオウ様にないものを、またラオウ様の目から描いている。これも読者は既に「愛/哀しみ」であることを知っていたが、此方は「愛/哀しみ」を到底理解し得ぬラオウ様が「恐怖」を覚えながら否応なく理解に至る経緯を描いている。故にラオウ様はこれを「恐怖」と呼ばれたが、實は我々読者とラオウ様は同調しているから、我々読者がそうであったように、ラオウ様もフドウの広く暖かき父性に胸を打たれたと見るべきであろう。但しその感情をどう呼ぶかをラオウ様は御存知なかったから「恐怖」と呼ばれたのだと思う。

一つの体に七つ(八つ?)の魂

 処でこの篇の最後でケンシロウはフドウの霊を弔うてから「行こう/最後の勝負/だ!!」(JC:15:105)と胸中で宣うているが、この「行こう」は誰に対して云うていたのだろうか。ラオウ様に対してなら「ゆくぞ」でなければならぬし、フドウに対して…でもないだろう。思うにこれはシン、レイ、シュウ、サウザー、トキ、リュウガら無想転生で顕現する強敵たちとともに「行こう」ではなかったか。
 もしそうならケンシロウは最早個人とは呼べない。一つの肉体に魂が幾つも宿る集団である。対するラオウ様はお一人。ならばこの台詞も次篇でラオウ様がどのようにケンシロウを認め御帰天するかを予告していることになる。とすると『北斗の拳』は予言成就的な物語である、と云えるのではなかろうか。

aside

*1
 『あしたのジョー』の力石徹も似ていなくはないが、どちらかというと矢吹丈は最後まで力石と対等ではなかったように思う。
*2
 とはいえシャア・アズナブルも一時はクワトロ・バジーナとしてアムロ・レイと共闘している。

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