カイゼルとハンが
混ざってる人
結構多いらしいよ

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
三十一篇全比較 22.シャチ野望篇 165-170話(全06話)


三十一篇全比較 22.シャチ野望篇 165-170話(全06話)

 本篇は曾て愛し相うたシャチとレイアが対立する様を描いており、これは『北斗の拳』ではこれまでなかった珍しい趣向である。然もこの二人が酷く未熟、甘チャンのケンシロウから見ても青臭いったらない。大きな野望を抱く割にシャチの腕はまだまだ拙く、愛を説くレイアは己がケンシロウにシャチを殺して欲しいと頼む意味を理解出来ていない。この未熟な二人の対立は、いうなれば痴話喧嘩だ。然も中高生程度の痴話喧嘩…即ち恋愛である。故にケンシロウは次篇、レイアに曰ふ。「まだ/捨てることは/ない……」「生きてさえいれば/また拾えよう」(JC:20:024-025)。本篇はケンシロウがそう云うに至る未熟な痴話喧嘩を描いている。

続き

theology01-04-22.jpgtheology01-04-22-2.jpgtheology01-04-22-3.jpg
  • 序:アルフ対ケンシロウ
  • 破:カイゼルに挑む羅刹シャチ
  • 急:カイゼル優勢

 シャチは初登場から半端な拳士として描かれている。初めからケンシロウを利用せんと画策しており、殺と斬を相手にしても、カイゼルを相手にしても、捨て身で挑まねばならぬ程度の腕だった。勿論いつ死んでもよいなんて覚悟をしていたわけではない。寧ろシャチはいつでも生きて帰るつもりでいた。だからボロに身を窶しカイゼルの弱点を探り、古傷のことが判ったからこそ戦いを挑んだ。それでもシャチは殺に背を曝さねば斬を斃せず、カイゼルに肋骨を折られねば腕を掴めなんだ。カイゼルの弱点を知って尚カイゼルの手下に手こずりカイゼルに苦戦する程度の腕だった。この程度の腕だから読者は誰もシャチがケンシロウの難敵になるなんて考えない。シャチはよくレイと比較されるが、その点ではアインの方が餘程シャチに似ている。だから注意深く読めばシャチが如何なる人物かこの段階で先読み出来るように出来ている。シャチははじめからアインと同じ凡人に過ぎなかった。美しく死なねば英雄にはなれぬ凡人だった。
 面白いのは拳王様御帰天以降ファルコやヒョウの如き超人が何も成し得ずアインやシャチの如き凡人の方が大きなことを成すようになったことだ。これは『北斗の拳』の世界が拳王様御帰天を以て超人の時代を終え凡人の時代を迎えていることを意味する。だからファルコは前篇で死なねばならない。時代は最早ファルコの如き超人を必要とはしない。故に神はさっさとファルコを天に召した。そしてシャチの如き半端な力の持主を修羅の国に放った。多分この篇はシャチの如き凡人が世を作る時代になったことを示している。

theology01-04-22-4.jpgtheology01-04-22-5.jpgtheology01-04-22-6.jpgtheology01-04-22-7.jpg
  • 起:ファルコ臨終→修羅の花嫁→砂時計のアルフ
  • 承:ボロに身を窶すシャチ→カイゼルの追手→修羅を喰らう羅刹
  • 転:シャチの実力→シャチとの因縁→レイアの私塾
  • 結:魔道に落ちたシャチ→北斗の因縁→シャチ辛勝

 シャチのことを除いて見れば本篇は修羅の国の風俗について實に様々な事柄を描いている。「15歳までに百回の/死闘をくりかえし/生きのびた者にしか/生を許さぬ」(JC:18:173)なんて滅茶な「武の掟」を無視すれば、修羅が修める村々の治安はよさそうであるし、街並みも綺麗で食料も水も豊富なようだ。「修羅」という文化を考えなければ平和そのものと云うてよい。
 だから本来ならばこの平和を破壊せんとするケンシロウは悪鬼羅刹の類だ。然し『北斗の拳』ではこの平和を破壊する行為が肯定的に描かれている。ではケンシロウは平和を厭う破壊者なのかというと、そうではない。何故ならケンシロウは暴力の権化たるジードを殺し、サウザーを殺し、ラオウ様と戦うている。ケンシロウが平和を厭うわけがない。寧ろ暴力と戦うて世界に平和をもたらしたのはケンシロウなのだ。中央帝都や修羅の国はその平和期に台頭してきた勢力である。理窟だけいえば中央帝都や修羅の国はケンシロウが生んだようなものだ。
 その中央帝都や修羅の国をケンシロウが破壊しようとしている。ケンシロウが平和を望む者であるとすると、この行為は理窟に合わない。だからケンシロウは平和を望む者ではない。だがケンシロウは暴力の荒野を望んでいるわけでもない。それは全ての読者がよく知っていよう。
 多分ケンシロウは世界が暴力に傾けば平和に荷担し、平和に傾けば暴力に荷担する中庸の人なのだ。だからあれほど拳王軍の将兵を殺戮したケンシロウが「狼は死なず篇」では元拳王軍のバルガに荷担する。「GOLAN篇」で神の狂信者を殺し尽したケンシロウが「光帝バラン篇」で神の盲信者に荷担する。この場合、平和は管理と言換えた方が判り易かろう。つまり『北斗の拳』の世界では暴力と管理が対立し、ケンシロウは世界が暴力に傾けば管理に、管理に傾けば暴力に荷担する。自らは支配者にならず、どちらでもない世界を模索している。故に暴力過剰の拳王軍を解体させたケンシロウは管理過剰の修羅の国を潰さねばならない。

CopyRight(C) 1998-2011 「北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園」 All right reserved.