ハンって人は別に
何も悪いことしてないよね
ケンやトキさんとは
どういう知合いなんだろ

北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
三十一篇全比較 23.第三の羅将ハン篇 171-177話(全07話)


三十一篇全比較 23.第三の羅将ハン篇 171-177話(全07話)

 「修羅の国入国篇」「シャチ野望篇」「第三の羅将ハン篇」「ジュウケイ無惨篇」「魔神ヒョウ篇」「修羅の国決着篇」の七篇から成る修羅の国故事はこの「第三の羅将ハン篇」が随一面白い。先づレイアとシャチの心理描写の素晴らしさ、そして格好良過ぎる羅将ハン様、更に甦る我らがラオウ伝説に伴う昂揚感、その上ケンシロウの出生まで明らかになるなんて、『北斗の拳』史上これほど盛沢山の一篇が他にあっただろうか。修羅の国故事の面白さは殆ど本篇ひとつに支えられているというても過言ではない。『北斗の拳』全体を見渡しても、これほど面白い一篇は「カサンドラ篇」くらいしかなかった。拳王様御帰天以降は蛇足、という者もあるが、儂はアインやハーン兄弟、シャチ、ハン、アサムが居る拳王様御帰天以降も大好きだ。ヒョウとカイオウの魅力乏しきを惜しむ心もあるが。

続き

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  • 序:羅将ハンと羅刹シャチ
  • 破:シャチが羅刹になった理由
  • 急:天将奔烈、恐怖のラオウ伝説

 本篇の柱は矢張りシャチである。序破急の三枚を見れば"野望の為に策謀を巡らすシャチは、救世主を待てずに修羅を喰らう羅刹に成果てたのだが、俄に待望の救世主が現れて…"という筋が容易く読取れる。殆どシャチの一人称で、レイアも「恐怖のラオウ伝説」もシャチの心象として描かれる。ケンシロウとハンの凄まじい戦いすら半端な腕しか持ち合せぬシャチの野望を萎えさせる為のものだった。またハンが語るケンシロウ出生の秘話もシャチの為にケンシロウをこの国に留める為の方便に過ぎない。それは「カサンドラ篇」以降で世を救うたケンシロウの動機が伝承者争いの始末でしかなかったことと同じだ。本篇以降修羅の国を救うたケンシロウの動機は創始伝説にまつわる宿命の始末でしかなかった。

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  • 起:北斗琉拳→恋の想い出→シャチ望郷
  • 承:チェックメイト→レイアへの想い→無影手同士
  • 転:ラオウ様を倒せし者→赤鯱対話→伝説を継ぐ者
  • 結:伝達の赤水→ケンシロウの故国→血の宿命

 『北斗の拳』が巧いなぁと思うのは、幾つか全く同じ筋の話があるのに、普通に読む分にはちっとも判らぬように出来ていることだ。その好例が本篇と「カサンドラ篇」である。「カサンドラ篇」のトキをリンに、ウイグル獄長をハンに、ライガとフウガをシャチに、マミヤをレイアに、囚人をボロに置換えて見ればたちどころにお解りになろう。ライガフウガに比べシャチを詳細に描き、レイアの人柄をマミヤを裏返したように設定し、ウイグル獄長による抑圧をレイアの想い出…修羅に抑圧される辛き過去に置換えている為、随分見た目が違うているが、ケンシロウだけを見ていると本篇は「カサンドラ篇」と変わりない。ケンシロウは単にトキ=リンを取り戻しに来ただけなのに、強き挑戦者を欲するウイグル獄長=ハンと戦わねばならず、その上その気もないのに救世主に祭りあげられ、戦いに勝利すればトキ=リンに誘われ過酷な伝承者争い=創始伝説にまつわる宿命の戦いの幕が開く。ウイグル獄長とハンの造形は見た目を除けば殆ど変らない。役目も同じ、拳王軍が支配する世を示して見せたウイグル獄長と同じくハンも修羅の国の典型を示して見せている。だからハンは尋常でなく強い。魔神ヒョウや末期のカイオウより強く見える。それはウイグル獄長と同じくハン以降に待受ける苦難の戦いを兆すため作者に与えられた強さだった。

レイアとシャチの痴話喧嘩である

 第一に本篇はレイアとシャチの痴話喧嘩である。この痴話喧嘩じたいが面白いわけではないが、それを治めるケンシロウの態度が實に佳い。深刻げに拗ねるレイアは「まだ/捨てることは/ない……」「生きてさえいれば/また拾えよう」「待つがいい」「シャチは/生かして/送り届け/よう!!」(JC:20:024-025)と穏やかに窘め、半端な拳法で大き過ぎる野望を語り不良ぶって見せる偸んだバイクで走り出しそうなシャチには「帰るがいい」「女と父親が/待っている」(JC:20:146)と反論の餘地を与えず上からズシンと押え付ける。ケンシロウめ、いつの間にこんな大人になりやがった。渋い演技するじゃないか。
 多分シャチとレイアはバットとリンより年長だ。然し管理過剰、ある意味"平和"な修羅の国で育った為か、バットとリンに比べると相当未熟に見える。「神こそ わが/しもべよ!!」(JC:19:183)なんてシャチも随分可愛らしいことを曰ふ。「あの男の前では/悪魔でさえ/童子!!」(JC:19:171)も可成り滑稽だ。暴力の荒野で生き抜き、強き男たちの戦いをその眼に焼き付けて育ったバットとリンには、とてもこんなことは云えぬ。きっとシャチはバットより強い。レイアもリンより賢かろう。だが頭の中はバットとリンに遠く及ばぬ。遙かに幼く遙かに拙い坊ちゃん嬢ちゃんである。本篇の大敵ハンがヒョウやカイオウより年長に見える程大人っぽく、また渋く描かれているのも、シャチとレイアの幼さを際立たせる為だろう。
 こんな二人、死ぬの生きるの云うた処で腹の中では乳繰り合うているのと一緒、関わるだけ馬鹿らしい。「待つがいい」「シャチは/生かして/送り届け/よう!!」、「帰るがいい」「女と父親が/待っている」、これで充分だ。これをきちんと書ける武御大は偉い。近頃こんな渋い話を見ない。

修羅の国最高美紳士ハン様

 第二に本篇は矢張り羅将ハンである。ハンが窮極に恰好良い。修羅の国全体を見渡してもハンより恰好良い男はいないだろう。修羅の国随一の男前と云える。それは何も口髭美紳士を儂が好むからではない。ハンは優男のヒョウ、情念の権化カイオウと違い、戦いそのものを愉しむ刹那的享楽主義者であった。然も今までケンシロウが殺戮してきたような暴漢とは違う。戦いに戦意以外の餘計な感情を持ち込まない純粋な武術家だった。それが格上とされるヒョウよりカイオウより遙かに修羅らしく、砂蜘蛛やアルフ、カイゼルらが具えていた修羅特有の理解を拒む薄気味悪い魅力に充ち満ちていた。
 先に書いた通りハンの性格や設定などは「カサンドラ篇」のウイグル獄長と殆ど同じで、ウイグル獄長とハンは物語上で同じ役割を担う敵だった。だからウイグル獄長がカサンドラで拳王軍が統治する世のモデルケースを示して見せたように、ハンも修羅の典型と修羅の国の統治体制を示して見せていた。ウイグル獄長が後のケンシロウの苦難を暗示したように、ハンも後のケンシロウの苦難を暗示していた。また本篇で「恐怖のラオウ伝説」が明るみに出たことも「カサンドラ篇」と同じである。カサンドラでもウイグル獄長との戦いを経て真のカサンドラ伝説*1、つまり恐怖の拳王伝説が明らかになった。ハンとウイグルはともにラオウ様の登場を兆す…或いは促す敵だったわけだ。

救世主ラオウ様の復活

 第三に本篇は甦る「恐怖のラオウ伝説」である。ラオウ様の来襲を伝える為の「伝達の赤水」は先づ間違いなくユダヤ人の救世主であるモーセがエジプトに帰りナイル河を赤くして見せた『旧約聖書』の「出エジプト記」の記述を模倣したものであろう。武御大くらいの世代の人はだいたいセシル・B・デミルの『十誡』を観ているので知らないわけがない。「河が赤くなる」なんて超常現象を思いつくのにモーセのことを考えなかったとは思えない。更にこの「伝達の赤水」が切缺で修羅の国中のボロが蜂起するが、これもモーセに従うてエジプトを出ようとしたユダヤ人を模したものであろう。コセムの叛乱が失敗したことも、或いは「出エジプト記」でシナイ山に登ったモーセを待ち切れず偶像崇拝に走って神罰を下されたユダヤ人を模しているのかも知れない。
 もしこの「伝達の赤水」がナイル河の赤水を模し、ラオウ様をユダヤ教の救世主=メシア=キリストのように演出していたとするならば、作者は意図せなんだかも知れぬが、少々面白いことになっている。というのも、出典を思い出せず、確かなことは書けないのだが、「カサンドラ篇」で描かれた崇山通臂拳の夫婦の悲話は、確かナチスドイツのユダヤ人強制収容所の故事を模していた筈だ。これが何を意味するかお解りだろうか。同じラオウ様にまつわる伝説であるが、「恐怖のカサンドラ伝説」はユダヤ人を迫害する故事を模し、「恐怖のラオウ伝説」はユダヤ人を解放する故事を模している。つまり「恐怖のカサンドラ伝説」と「恐怖のラオウ伝説」がシンメトリになっているのだ。
 だから何だ、と思われるかもが、「恐怖のラオウ伝説」が「恐怖のカサンドラ伝説」のシンメトリであると考えると、實に重要なことが判る。
 先づ「恐怖のラオウ伝説」を語るシャチ、「恐怖のカサンドラ伝説」を語るトキのことだ。シャチとトキはともにケンシロウが連れ帰ろうとしていた二人だが、シャチは救世主にあらざる者で、トキは救世主と呼ばれた者、シャチは国を変えたいと思う者で、トキは病故に国を変えられぬ者、シャチは半端な破孔術で修羅を殺戮する者で、トキは精髄を窮めた秘孔術で弱者を救う者、シャチは若々しく、トキは病み、シャチは幼く、トキは大人、實に様々な要素が反転している。ただラオウ様の伝説を開陳するだけにしては、えらく不必要に反転した共通要素が多い。然も本篇でも「カサンドラ篇」でもともに志を抱くに至る経緯を美しく哀しい想い出として描いている。作劇法、設定法は殆ど同じというわけだ。この二人はシンメトリと見なしてよかろう。但しシャチの方がトキより多機能だ。シャチには「カサンドラ篇」でライガとフウガが担った"ケンシロウを救世主に仕立てる"機能まであった*2
 次いで「恐怖のラオウ伝説」と「恐怖のカサンドラ伝説」の「恐怖」が"過去の因縁"であることだ。この二つの伝説が顕れるに先立ち、ケンシロウはトキの想い出を語り、シャチとレイアは二人の淡い想い出を振返った。これはともに好ましい過去である。それに対し「恐怖のカサンドラ伝説」は伝承者争いにまつわる因縁、「恐怖のラオウ伝説」は創始伝説にまつわる宗家の因縁、ともに厭わしき過去だった。好ましい過去はトキとシャチが司り、厭わしき過去はラオウ様が司る、ということがこれで判る。ケンシロウはただ好ましい過去を回復せんとトキとシャチを取戻したわけだが、それに伴い厭わしき過去をも甦らせている。禍福は糾える縄の如し、どちらか一方だけだなんてことは無理だった。その過去の励起を妨げるウイグル獄長とハンは差詰め過去の番人という役どころか。
 本篇でケンシロウの故国が明らかになるのも多分好ましき過去を象徴しているのだろう。序でに「故国」を想いながら帰れぬ境遇にあったシャチは「故国」と知らずに偶然帰ってきたケンシロウと対を成す。即ちこの頃のシャチはケンシロウでもある。だから「カサンドラ篇」以前のケンシロウと同じくシャチも中途半端な伝承者の一人であった。いうなれば次篇で負けてしまうケンシロウは「拳王様御出馬篇」のレイで、次篇でケンシロウを救うシャチは「拳王様御出馬篇」のケンシロウだった。ややこしいな…。

aside

*1
 ウイグル獄長の無敗伝説ではなく、収監した武芸者から数々の奥義を奪い強大におなりあそばした拳王様の…つまり反救世主としてのラオウ伝説。
*2
 但し半分くらいは早とちりして「伝達の赤水」を流した假面のボロが持っている。

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