農地開発するまでは
偉いんだけどなぁ

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三十一篇全比較 28.狼は死なず篇 211-217話(全07話)


三十一篇全比較 28.狼は死なず篇 211-217話(全07話)

 儂が本篇を構造的に面白いと思うのは、リュウの造形もさることながら、コウケツという敵役のあり方だ。というのも、一見するとコウケツはジャコウに類する類型的な俗物に過ぎないが、なかなかどうして面白い特徴を具えている。

 先づコウケツは農場の主である。そして曾て広野を駆巡った狼たち…即ち落魄した拳王軍の残党の子供たちを人質に取り、農奴として扱き使うている。男の癖に戦いを避け、媚びを売って出世を計ったことをラオウ様に見抜かれて大恥をかいたどうしようもない下衆である。
 このコウケツの特徴は、一見してみるとよくある小悪党のステロタイプのようであるが、具に吟味してみると、實はマミヤの影であることが判る。マミヤは花や穀物が実る豊かな村のリーダーであり、荒野を横行する狼たち…即ち牙一族に村を狙われ、トヨの養子たちを引取ることを条件にケンシロウを雇い入れ、牙一族に対抗しようとしている。女を捨てて戦いに身を投じながら、レイに服を破られた際に胸を隠したことで女であることを再認識させられた。つまり、ともに農場の主であり、どちらも「狼」と呼ばれる集団に対抗する為に子供を養い、性別に反する行いをし、それ故に恥をかいている、という特徴が一致しているのだ。
 勿論武御大と原御大がそんなことを意識して描いたとは思えない。多分、コウケツという下衆を造形する際に"穢らわしい特徴"を附加していったら、、無意識にマミヤと正反対のキャラクタが出来た、というだけであろう。抑もマミヤは半ば女神と化したユリアと違い、生き身の女としては実在し得る限界まで理想化された"美人"だ。実在し得る最低の"下衆"を考えれば、マミヤの正反対になるのが道理である。だから偶然といえば偶然だろう。「農場」と「狼」の一致も「狼」を「暴力の荒野」の象徴として考えれば「農地」と「荒野」の対立として容易く理解出来よう。

 もうひとつ、コウケツは子供を人質にとってバルガらを農奴にしていたが、この子供らを代表するシンゴはどういうわけか盲目である*1。処が『北斗の拳』には幾人も盲目のキャラクタがおり、これらを比較すると、『北斗の拳』に登場する盲目のキャラクタには明確な役割があることが判る。それは"人質"若しくは"自己犠牲"の暗示である。アイリ、シュウ、ルイ、赤鯱、シャチ、シンゴ、ボルゲ、何れも"人質"若しくは"自己犠牲"に関わっている*2
 シンゴを人質に取ることでコウケツは労働力を得ていた。この構図は同じく子供を捕えることで労働力を得ていたサウザーと同じで、コウケツを"卑小なサウザー"と見なした場合、シンゴは"縮んだシュウ"であることになる。そう思うて見れば、成程コウケツもサウザーもオールバックで、恐らくは銀髪、どちらも豪華な食事を採るシーンもあり、似ていないではない。
 コウケツが"卑小なサウザー"であるならば、"縮んだシュウ"であるシンゴは「みなも/聞くがよい/今動く/ことはない」「おまえたちの/中にある/心が動いただけで/充分だ」「その心が いずれ/この世に再び/光をもたらす/であろう」「心ひとつひとつが/大きな束と/なった時に」(JC:11:059)というシュウの預言の成就を暗示する存在ではないか。
 もし本篇が預言成就の物語であったとすると、「みごとだ/シュウ!!」(JC:11:095)とシュウの死を讃えたラオウ様の御子息がシュウの預言を成就させたのだ。何やら壮大である。

続き

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  • 序:仇の名はコウケツ
  • 破:リュウ自身の戦い
  • 急:コウケツ追詰めたり

 色々あるように見えるが、要約すると本篇はこれだけの話で、リュウは仇敵コウケツを自分自身の力で倒しましたよ、というだけの筋だ。それ以上でもそれ以下でもない。實に明解である。

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  • 起:少年英雄リュウ→ケンシロウとの再会→ハクリ夫婦の悲劇
  • 承:キスケの勧誘→時代が変った→地獄へようこそ
  • 転:バルガとシンゴ→ラオウ様の御子息が→狼の血は健在
  • 結:ドブネズミの恨み→地上最強の拳法→ドブネズミの最後

 然し此方を見ると本篇は實に両義的だ。
 先づケンシロウが修羅の国より帰ってきて、リュウが登場する。リュウは五六歳ほどの少年だが既に英雄としての資質を充分に具えており、読者はリュウがラオウ様の御子息であることから容易に"ラオウ様の再来"であることを予感する。即ち本篇冒頭でケンシロウが帰国するとともにラオウ様も"帰って"きたというわけだ。
 ハクリ夫婦がコウケツの手下に殺されて、ケンシロウはリュウに仇討を促す。抑もコウケツの手下が隔離施設を襲うたタイミングが恰もケンシロウ到着を待っていたかのようであるのは不審だが、それはさておき、ケンシロウとリュウはキスケの勧誘に敢て乗りコウケツ農場に潜入、ラオウ様の治世を知るジンバやバルガの落魄を目の当たりにし、コウケツは「フフ…/みるがいい/外を!」「ようやく/大地は落ち着き/種々の作物を/産み出すように/なった!!」「もはや/少ない食物を/奪い合う時代/ではないのだ/これからの時代は/いかに土地を握り/いかに多大の/食物を得」「その食物を武器に/人を制していくか/なのだ!!」(JC:24:141)とコウケツは自説を述べる*3
 バルガは實に気の毒な人だ。曾ては拳王軍屈指の武将として広野を駆巡った豪傑であったのに、「平安ゆえに」「目標を/失い治世の術も/見失って」落魄し、愛息シンゴを「極度の栄養不良の/ために」失明させてしまう爲體、仕方なくコウケツに頼れば妻子を人質に取られ牛馬に堕ち、結局その後「まもなく」細君を失うた。
 ナラトロジー的に解釈するならば、物語に於ける妻は玉座*4、息子は不死性*5、両目は権威*6を意味する。つまりバルガは玉座(あるべき地位)と不死性(曾ての生命力)と権威(世を治めるだけの権威)を奪われた状態にあるわけだが、抑もバルガは「われら武に生きる/者たち」と落魄した元拳王軍の「狼」たちを代表しており、拳王軍そのものが玉座と不死性と権威を喪失している。処が落魄した拳王軍を代表するバルガはラオウ様の正統な後継者であるリュウを得たことで活力="不死性"を取戻し、「わかる!/わかるぞ!!」「オレの血が!/かつて広野を/疾走した血が/音をたてて/甦って行く!!」「ラオウの/魂は健在!/再びわれらを 衝き/動かしている!!」(JC:25:007)と歓喜の声を上げ、栄光の拳王軍は見事蘇生を果す。リュウはラオウ様そのものの"不死性"の象徴でもあるので、これはラオウ様そのものが蘇生していることと同義である。ラオウ様が復活したことでコウケツの説は覆された。
 そんなリュウが「目」を繰返し強調されるキャラクタであることは實に象徴的である(JC:24:102 JC:26:204)。即ち拳王軍を継ぐに足る正統性…権威を具えていることを暗示しているように読めるからだ。恐らく五六歳にしかならぬであろうリュウは既に一廉の英雄である。然し身体的にはごく普通の子供に過ぎない。ラオウ様より受け継いだ資質は飽くまでもその気性であって、決して拳法の才能であるようには描かれていない。勿論バランをしてラオウ様を思わせる闘気を具えてはいたが、あれも気性より発するもので、決して拳法の才能の顕現ではない。
 斯くの如き"英雄"でありながら"普通の少年"であるリュウにケンシロウは仇討を奨めているが、「ならば/ラオウより/うけた熱き血と/自分の拳/でだ!!」(JC:24:125)「いいか/おまえ自身の/手でヤツを/倒すのだ」「これは/おまえの戦いだ!!」(JC:24:143)と云って、仇討じたいには殆ど手を貸さなかった。以前のケンシロウなら考えられない仕業である。何故なら曾てリュウガはラオウ様とケンシロウを比較してこう述べたではないか。「ラオウは子供に/恐怖と戦いを教え/ケンシロウは/子供の無垢な/心を捉える」(JC:12:197)。リュウガの評の通り、ケンシロウは子供に対して無制限に優しい男であった筈である。ジードもGOLANもウォリアーズも子供の為に退治してやったのだ。サウザーに対する挑戦さえ、幼いリョウを殺されたが故だ。その際にリンやリマに仇討を嗾けることはしなかった。全て独りで戦いに赴いた。それに比べると本篇でのやりようはケンシロウらしくない。まるで「小僧!!/怖くば オレの腕を/くいちぎってでも/抗え!!」「戦わねば/そのふるえは/止まらぬ!!」(JC:12:186)と仰有ったラオウ様のなさりようである。結果としてリュウはコウケツを討ち果たせなかったが、組織としてのコウケツ一族を破滅に追いやったのはリュウである。"小ラオウ様"として見事"小拳王軍"を率いバルガたちを解放せしめた。
 前にも書いたが、「新伝説創造篇」以来ケンシロウはラオウ様化している。特にラオウ伝説を継いで以降は完全にラオウ様と融合している。本篇のケンシロウも明らかにラオウ様化したケンシロウだ。このケンシロウであれば「小僧!!/怖くば オレの腕を/くいちぎってでも/抗え!!」「戦わねば/そのふるえは/止まらぬ!!」と無抵抗主義の村の子供を怒鳴りつけたことだろう。だからリュウが人質に取られても「殺すなら/殺すがいい!!」「ラオウの血を/受け継ぐ子だ/すでに死は覚悟/していよう!!」(JC:25:036)と意に介さなかった。
 本篇は「ケンよ…/北斗神拳を/だれに……」(JC:24:091)とバットが心配を述べて始まったので、無批判に読むと恰もケンシロウがリュウを北斗神拳伝承者として育てようとしているようだが、以上のことを思うと、果たしてケンシロウは本当にリュウを北斗神拳伝承者にしようとしているのだろうか、甚だ疑問である。というのも、ケンシロウは人質に取られたリュウを無視して北斗神拳を振うて見せ、初めて北斗神拳を目の当たりにしたリュウは素直に「こわかった」「こわいほど/すごいんだね/北斗神拳は…」(JC:25:041)と恐怖を口にしている。
 あれはどう考えても無抵抗主義の村の再現だ。「ラオウは子供に/恐怖と戦いを教え」る。ケンシロウもまたリュウに「恐怖と戦いを教え」たわけだ。それで「こわいほど/すごいんだね/北斗神拳は…」と感想を述べたのだが、これはリュウが間違っている。何故ならこの時リュウが見た拳は明らかに「ラオウの拳」なのだ。北斗神拳を見たのであれば曾てラオウ様に殺されたトラがそうであったように、リュウも「死を/覚悟した」筈なのだ(JC:07:166)。リュウは「ラオウの拳」を見たから恐怖を覚えたのである。そして「ラオウの拳」は北斗神拳の本質から外れている。「ラオウの拳は/暗殺拳では/ない!!」(JC:07:166)。
 だから多分、ケンシロウはラオウ様を育てるつもりであって、北斗神拳伝承者を育てようとしているわけではない。ならば『北斗の拳4 七星覇拳伝 北斗神拳の彼方へ』でリュウが北斗神拳を継がなかったことは、理由はどうあれ当然の帰結と云える。ラオウ様として育てられたリュウが北斗神拳を継げるわけはないのだ*7
 以上のような意味で本篇は両義的である。ケンシロウとともにラオウ様が"帰って"きて、「時代が/変ったんだよ」(JC:24:140)としながら「ラオウの血は/時代に/のまれぬ」(JC:24:184)と謂い、リュウに北斗神拳を仕込むように見せながら、ケンシロウはリュウをラオウ様として育てようとしている。このように本篇は實に両義的なのだ。

aside

*1
 勿論作中できちんと「極度の栄養不良の/ために盲目となった」(JC:24:161)と記述があるが、そういうことが判らないわけではない。作劇上どういう理由があって武御大はシンゴを盲目にしたのか、という意味である。
*2
 シュウは人質を取られ自己を犠牲にした。対するルイは人質になってファルコが自己を犠牲にしていた。ボルゲはバットがケンシロウの身代りになることで自己を犠牲にしていた。何れの場合も"人質""自己犠牲"に"関わる"が、甲乙の関係は決して固定されていないので"関わる"としか表現出来ない。
*3
 この行は露骨に社会諷刺である。今の人が読むとまるでマネーゲームで利殖を肥す人々が世を制する二十一世紀初頭の世相を斬っているように思うかも知れないが、本篇が週刊少年ジャンプに掲載されていた頃は所謂バブル景気のまっただ中で、この行はそんな「バブル」の世を批判している。バブル景気は土地景気で、「一戸建てさえ諦めればダレでもお金持ちになれる」と云われていた。そして本当にどんな馬鹿でも土地さえ持っていれば大儲けが出来た。
*4
 例えば勇者が囚われのお姫様を救い出して王様になる、という工合に、配偶者の獲得は王位に就くべき者があるべき地位に収ることを意味する。ギリシア神話にはこの手の類話が多い。
*5
 我が国の帝やエジプトのファラオなどの王者は魂の不滅が信じられており、その永遠性は王者の子が王者の魂を受け継ぐことで維持される。つまり王位を継ぐ者がある限り王者は不死であると信じられていた。
 我が国の家制度はこの思想が一般に広まったもので、この場合は決して血統を重視しないが、祭祀を継ぐ者がある限り家祖の不死性が維持された。
*6
 曾て王者の両目は太陽と月であり、太陽と月に基づく暦は王者が支配するものであった。だから神話に於いて「盲目である」と記される人物は王位継承権を失うており、多くの場合王位継承権を取戻すと同時に視力を取戻す。
*7
 勿論ケンシロウがそんなことを考えていたとは思わない。ただリュウをラオウ様のように育てたいと考えていただけだろう。その結果、北斗神拳が変質するであろうことまでは想像していないと思う。ほら、ケンシロウって、馬鹿だからさ…。

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