なーんか私
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北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園
三十一篇全比較 31.ケンシロウ追憶篇 237-245話(全09話)


三十一篇全比較 31.ケンシロウ追憶篇 237-245話(全09話)

 少し照れ臭いが、儂は本篇が好きだ。『北斗の拳』の最終章がこういう話で本当に良かった。これ以上ないくらい完璧な最終回であると思う。こんな最終回を迎えられた『北斗の拳』は本当に幸福であったし、そんな物語を愛することが出来た我々も倖せであった。漫画に名作数あれど、最終回に限っては『北斗の拳』くらい佳い最終回を迎えられた作品はなかなかない。それだけにこの最終回が餘り世間でよく知られていないのは、まことに惜しいことである。だが、概して名作ほど最終回が知られていないもので、故にこれも『北斗の拳』が名作である証といえなくもない。

続き

 『北斗の拳』の物語は本篇を以て大きな輪を描いて閉じていると謂える。荒野より独り現れた何も持たざるケンシロウが、独り何も持たずに荒野へ去ったのだ。つまり最初のケンシロウと最後のケンシロウは同じ"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"になっている。"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"が全二百四十五話をかけてまた"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"に戻っている、即ちぐるりと輪を描いて元の状態に戻ったわけだ。結局ケンシロウは全二百四十五話を費やして何も得ずに帰還したのである。
 これぞ最終回の王道、極めて古典的な最終回の典型だ。『ギルガメシュ叙事詩』*1、『アーサー王の死』*2、『三國志演義』*3、『水滸傳』*4、『新約聖書』で描かれたイエスの生涯*5、仏典に見られる仏陀の生涯*6、『論語』に記された孔丘*7の生涯など、数多くの英雄譚=救世主伝説*8が『北斗の拳』と同じようにして幕を閉じている。ギルガメシュも、アーサー王も、曹孫劉の三英雄も、梁山泊の百八の好漢も、イエスも、仏陀も、孔子も、生きている間に何も得ることなくこの世を去った。物語の冒頭で提起された問題を何も解決させぬまま物語を終えた*9
 神話学者ジョゼフ・キャンベル Joseph Cambell (1874-1965)曰く、「英雄とは、生誕の再現が際限なく繰り返される人間であり、その生命の啓示がカトドス(上り道)とアノドス(下り道)の交差の上に幾度となく成立するような人間、自力で達成される自己克服を完成した人間である」。翻訳本の宿命か、些か日本語が崩壊しているが、多分、英雄とは上昇と下降を幾度となく繰返して生と死の境界を自らの力で乗越える者である…くらいの意味だろう。そうであるならば、成程「おまえは/今日まで死を/見切って/生きてきた」「熾烈なる強敵との/戦いの中で生と死の/狭間を見切った/のだと!!」(JC:16:032)とラオウ様に称賛されたケンシロウは見事に「世紀末救世主」だ。確かに『北斗の拳』は「世紀末救世主伝説」である。
 キャンベルの説に拠ると、英雄=救世主の物語は「日常」を起点とする環状構造になっており、「日常」から「旅立ち」→「通過儀礼」→「帰還」と推移し、「日常」に戻る。「通過儀礼」とは民俗学の用語で成人式や結婚式、或いは葬儀などの人が成長する過程で段階的に意味を与えられる儀式を謂い、多くの通過儀礼はその文明の中で考えられる"死後の世界"を摸しており、成長は"死からの再生"として解釈され、生前の世界である「日常」と対比されるのだが、多分キャンベルは物語もそういった「通過儀礼」と同じく"死"を疑似体験させる機能を持っていると考えていたのだろう*10
 "独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"が旅を経て"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"に戻る物語である『北斗の拳』も、このような英雄譚=救世主伝説と同じく環状構造になっている。こうした物語の主人公は物語が環状に閉じている為、物語の中を永劫回帰的*11に周回することになる。『北斗の拳』も然り、"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"は第一話以前も第二百四十五話以後も"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"だから、"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"が"独り荒野を彷徨い歩く何も持たざるケンシロウ"である限り、永遠に同じことをし続けられるわけだ。多分それ故『北斗の拳』は幾度もの再読に耐えられるのだと儂は思うているが、そうでなくても、この最終回でケンシロウの状態が完全にリセットされることで、其処がケータイ小説『ケンシロウ外伝』やFCソフト『北斗の拳4 七星覇拳伝 北斗神拳の彼方へ』、SSソフト『北斗の拳』、小説『北斗の拳 呪縛の街』などの前日譚、後日譚の存在を許す餘地になっており、永劫回帰ではなくとも、無限の連続性は確かにある。

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  • 序:何もわからないケンシロウとリン
  • 破:バットvsボルゲ
  • 急:ケンシロウの危機

 仏教では人が決して逃れられぬ苦しみのことを"四苦"と呼んでいる。即ち生まれたこと(生)、老いること(老)、病むこと(病)、死ぬこと(死)である。更に、愛するものと別れねばならぬ苦しみ(愛別離苦)、怨み憎んでいる者と会わねばならぬ苦しみ(怨憎会苦)、欲するものが得られぬ苦しみ(求不得苦)、五感が鋭敏であるが為に生じる苦しみ(五蘊盛苦)の四つを加え、"四苦八苦"と謂う。『北斗の拳』にはこれまで生きることで苦しむ者(リン、アイリ、マミヤ)、老いることで苦しむ者(リュウケン、コウリュウ、ジュウケイ)、病んで苦しむ者(トキ、ユリア)、死ぬことで苦しむ者(レイ)が登場したが、本篇では愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四つが描かれる。愛別離苦はケンシロウとユリア、バットとリン、リンとケンシロウが担い、怨憎会苦はボルゲが司り、求不得苦はバットがリンを想う心、五蘊盛苦はボルゲの加虐に耐えるバットが味わうている。
 本篇にはマミヤも登場しているが、マミヤはこれらの苦しみに係わらない。何故ならマミヤは既にケンシロウとレイとユダの間で充分に苦しみ終えているからだ。ケンシロウの影響下にあってマミヤはケンシロウよりも先に旅を終えたキャラクタであるから、最早苦しむ必要はない。それなのに、バットと一緒に死んであげようだなんて、なんて佳い女なんだろう。悲しきオールドミス、マミヤに幸あれ。

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  • 起:ケンシロウの帰還→リン記憶喪失→ユリアの遺言→ユリア落涙→ケンシロウ記憶喪失
  • 承:北斗神拳を忘れず→身を引くバット→ゾルド軍全滅→復讐鬼ボルゲ→バット捨身
  • 転:ボルゲの罠→あの日の少年→ボルゲの因縁→ボルゲの復讐→マミヤの助勢
  • 結:究極超人復活→ボルゲ一蹴→バットの死→リン記憶回復→バットの蘇生

 起承転結、實に端正に出来ている。原御大は最終回でケンシロウを死なせたかったそうだが、武御大はもしかすると可成り早い段階で本篇の構成を考えておられたのかも知れない。本当に綺麗に出来ている。誤読のしようがあるまい。

 処で、本篇の敵であるボルゲだが、どうも儂はこのボルゲが淫猥に見えて仕方がない。實に醜悪で、實におぞましく、甚だ異形である。『北斗の拳』に異形のキャラクタ数あれど、此処まで醜悪でおぞましいキャラクタは他になかった。多分ボルゲが男根に似ているからだと思うのだが、どうだろうか。
 先づ目に付くのが、ボルゲの隆起した眉だ。これがボルゲの頭を亀頭のように見せている。その頭には装甲が仕込まれていて、ゾルドの白爪妙拳で人造皮膚がズルッと剥ける(JC:27:100)。その剥けた様子が恰も包皮のようで、また頭に装甲を仕込むという行いが男根に真珠を埋めるヤクザの風俗を思い出す。ケンシロウの名を騙るバットを前にして「プルプル」と震え、「あああ〜〜/待ったぞ〜〜!!」「気も狂わんばかりに/この日を待った〜ああ」と喚いて跳び上がり、「きこえるか/ケンシロウ/脈打つ/鼓動が!!」(JC:27:108)とドコンドコンと音を聞かせる様など、想い人を前にして張裂けんばかりになった男根を誇示しているようで気持ちが悪い。多頭凶蛇棍はホラー作品であれば触手であっただろうし、右腕を隠す戦術も穿って見れば淫靡で、バットの首筋を噛み(JC:27:134)、バットを刺しながら「無上の歓び」(JC:27:117)を感じる性質も、その用字の選び方に至るまで、バットを強姦しているようだ。電動ドリルに至っては、もう下品な玩具でしかない。抑もボルゲが盲目であることじたいが男根的だ。古代ローマでは男根の神をカイクルス Caeculus、則ち「小さな盲目の子」と呼んでいた。

 こんなボルゲが、花のように可憐なリンではなく、バットを凌辱している。それどころか、邪魔に入ったマミヤさんのことも、結構あっさり殺そうとしている。ボルゲは女を餘り気にしていない。だから儂はボルゲが怖い。多分ボルゲは純粋なゲイなのだ。だって、どう見てもボルゲったら、性的に興奮しながらバットやケンシロウを傷つけてるでしょう。ボルゲはゲイだよ。
 然し、可憐な美少女リンをメインにして、年増美女マミヤまで出しておいて、最後の敵がゲイってんだから、『北斗の拳』は凄いなぁ。普通の作家はそんなことしないよ…。

aside

*1
 紀元前2600年頃に実在したと推定されるウルクの王ギルガメシュにまつわる物語。
 神の血を引くウルク王ギルガメシュはその力を恣に振うて愉しく生きていたが、己と互角の力を持つ親友エンキドゥが死んだことで己も死に逝く者であることに気付き、死の恐怖に怯え、永遠の命を欲して旅に出、竟に不死の薬草を手に入れるが、その帰路、ふとした隙に薬草を蛇に食われてしまい、失意の内にウルクに帰る。
*2
 トマス・マロリーが1470年までに執筆完成させた騎士道物語で、ブリテン王アーサーの伝説をまとめて脚色したもの。
 引き抜いた者は王になると預言されていた剣を抜いてブリテンの王になったアーサーは、数々の冒険を経て王国を繁栄させるが、最後に不義の子モルドレッドと戦うて深手を負い、湖の手に聖剣エクスカリバーを返し、この世を去る。
*3
 明代の通俗歴史小説。羅貫中作という。『三國志』の史実を元にはしているが、勿論史実ではない。
 曹操、孫堅、劉備が颯爽と登場して、この孰れかが天下を統一するのだと思って読んでいたら、みんな道半ばで死ぬ。
*4
 明代の白話小説。施耐庵作という。『大宋宣和遺事』の記述を元に様々な講談の英雄咄が集まって出来た。
 宋江を中心とする百八人の好漢が天の導きにより梁山泊に終結し朝廷に帰順するが、その後の戦いで多くの好漢が死に、または去り、国に戻るなどし、宋江も毒殺される。
*5
 ゴルゴタの丘で磔刑に処されるが、逮捕の際、男の弟子は全て逃去って、筆頭弟子ペテロに至っては三度も「(イエスなんて)知らない」としらを切った。
*6
 仏陀はサーリプットラとモッガラーナを教団の後継者に指名していたが、ふたりとも仏陀より先にこの世を去っている。
*7
 孔子は世に仁と礼の心を広めようと尽力したが、筆頭弟子顏回、愛弟子子路を失い、何も果たせず失意の内に亡くなった。
*8
 救世主とは民族的或いは宗教的に登場乃至活躍を期待されている英雄のことで、基本的には同じものを指している。強いて違いを探せば宗教的解釈を必要としないのが英雄、必要とするのが救世主。だから喩えどんな残虐非道な悪人であっても英雄と呼ぶことがあるが、救世主はそうはいかない。
*9
 勿論『出エジプト記』や『オデュッセイア』のようにきちんと解決させて終る英雄譚=救世主伝説がないわけではない。英雄譚=救世主伝説の類型のひとつである、という話であって、全ての英雄譚=救世主伝説が…というわけではない。ただ、解決しないで終る方が多いことは確かである。
*10
 キャンベルはこの文脈で成長や結婚を論じているので、多分そういうことだと思う。
*11
 フリードリヒ・ニーチェの超人思想の一つ。いまいちよく理解出来ないが、経験は常に一回限りでなく超人的意志によって永劫に繰返すことが出来る、というもの。似たような経験を繰返す輪廻転生思想ではなく、全く同じ経験を無限反復するという。本稿の文脈では「超人的意志」とかは無視して「全く同じ経験を繰返す」という意味で読んで頂ければよい。

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