先賢に学ぶ

メモ*1 メモ*2

先例はなくても類例くらいはある

 さて、三十一篇を比較しよう…とする前に、先づ確認しておかねばならぬ。儂はただ『北斗の拳』三十一篇を一々突合わせて揺るぎないパターンを抽出すると書いたが、それは如何にして行うべきか、その方法を示していない。
続き

岡田斗司夫に頼ってみる

 先に儂は朧気なパターンを提示、そのパターンと三十一篇と突合わせて比較、修正を加えながら作ろうとして失敗した。これは提示したパターンに修正を加る際に儂の恣意が混じったが故の失敗だ。また同じ失敗を繰返さぬ為には儂の恣意、主観が混じらぬようにせねばなるまい。
 その為には先づ『北斗の拳』の物語を解体してから分析するのがよかろうと思う。そこで岡田斗志夫が『オタク学入門』*3にて「ストップウォッチのシナリオ学」にて紹介した方法を用いることにした。
 その手段は窮めて簡単である。ハリウッド映画のシナリオは、120分の作品であれば、30分目に主人公が事件を解決する為の動機付けが行われ、60分目で事件が問題が顕在化し、90分目で主人公が不利に陥り事件に立ち向うよう仕向けらる、という。故にシナリオを均等に三つの節目で区切ってやれば、脚本の構成が判り、より映画を見る楽しみが増すというのだ。
 この手法をどの程度信じられるかについてだが、同書で岡田はその根拠を示しておらず、ただ幾本かの映画作品を例にして見せるだけで、同書の記述がどのくらい信用出来るのか、いまいちよく判らない。それに同書には「オタクはモテる」などの珍奇な記述もある。どうも信じ憎い。だが、色々と裏を取ってみると、これが案外伝統的な作劇法と似ている。
 儂が調べた限り、作劇法というものは、ギリシア悲劇でも、オペラ歌劇でも、京劇でも、歌舞伎でも、だいたい似たようなもので、文化毎の差異は殆ど認められない。例えば岡田は映画を30分目/60分目/90分目で区切り分析するが、世阿弥*4は"序/破/急"*5、アリストテレス*6も"起首/中枢/結尾"に分けて物語を構成することを説いていた。岡田の分析法はこれに由来するのかも知れない。また、脚本に節目が三つあれば劇は三幕構成となり、物語は"起承転結"の四段に分れる*7が、岡田の説も、30分目/60分目/90分目の各節の15分目、つまり15分目/45分目/75分目/105分目には伏線が張られているとし、これがどうやら"起承転結"に対応するらしい。岡田説の正否は解らぬが、序破急説、起承転結説に頼ることである程度信用出来ると思う。
 さて、これを『北斗の拳』分析に用いるのだが、果たして映画の分析法を漫画に適応してよいものか。曾て岡田は『BSマンガ夜話』*8にて『童夢』の単行本を開き、中央に物語のクライマックス部があることを以て「構成が滅茶苦茶」と述べていたことから、岡田自身は漫画に適応してもよいと考えていたようだ。然し、本当に漫画に適応してもよいものだろうか。
 日本の漫画は映画的表現手法を取り入れて云々…と云われるが、取り入れて、ということは、漫画は映画的表現手法を取り入れたから映画に似たのであって、素は映画ではないわけだ。だから映画の分析法を漫画に適応するのは些か問題があるように思われる。然し、抑も"序破急"は雅樂、"起承転結"は詩文に発する概念である。漫画は「キャラ」「コマ」「言葉」で物語を紡ぐ表現であるが*9、「キャラ」を絵、「コマ」を展開、「言葉」を台詞と考えれば、その本質は紙芝居に近く*10、紙芝居が講談より発し、講談が音楽と詩文で出来ていることを思えば、漫画は映画より音楽と詩文に近く、音楽と詩文の分析であるなら、序破急説、起承転結説を用いても問題なかろう。岡田説を基に序破急説、起承転結説で解釈すれば間違いはない筈だ。それに『北斗の拳』は脚本と作画を分業していた。普通の漫画よりは映画にも近い。映画、雅楽、詩文、何れから見ても『北斗の拳』なら問題あるまい。

岡田斗司夫の方法を『北斗の拳』に適応させる

 では、如何にして『北斗の拳』を裁断し分析するか、だ。
 分析の単位は先に分けた三十一篇毎とし、各篇を「〜〜の巻」単位で三節四段に分けた。一篇が六話構成であれば、二話目の50%目にあたる頁を「序」、四話目の0%目=三話目の最後の頁を「破」、五話目の50%目にあたる頁を「急」とし、一話目の75%目辺りに「起」の伏線、三話目の25%目辺りに「承」、四話目の75%目辺りに「転」、六話目の25%目辺りに「結」の伏線があるだろうとした。故に見掛けでは各篇12.5%毎に分けてある。尚、『北斗の拳』は第一話を除いて一話あたり18〜24頁、最大で6頁も差があるが、一話は一話とし、長短は無視*11、総頁数等分ではなく各話の頁数の割合に合わせ、端数を切上げて分った。
 但し頁数を数える上で困ったことがあった。単行本収録時に出来た「捨て頁」と「缺落頁」である。

「捨て頁」

 捨て頁とは文字通り「あってもなくてもいい頁」である。正しい名称は知らないので、便宜的に儂が名付けた。書下しの単行本作品とは違い、雑誌連載作品では着色頁や広告頁の都合で右左右左と並ぶべき頁が右左左右となることがあり、単行本に収録する際には右左右左となるよう何らかの形で頁を増やさねばならない。その増やした頁を「捨て頁」と呼んでいるのだが、この頁が作家によって様々で、白紙で構わない人があれば、どうでもいいカット絵を挟む人、凝って四齣漫画や自作クイズ、作品世界を掘り下げる為の図鑑やギャグ、楽屋オチ、近況報告や裏話、制作秘話を挿入する作家もある。
 原哲夫は大抵その場面に相応しい風景画を挿入するが、時にその話の内容に沿うた新たな齣を加えることがある。だいたい一枚絵乃至大齣で、これと云って必要とは思えぬ行を描くから、単行本を読んでいれば、およそどの頁が「捨て頁」であるかは見当が附く。
 厳密な調査を目指すには、当然このような頁は省いて数えねばならない。だが、これが一筋縄ではいかない。というのも、儂は先程「凡そ見当が附く」と書いたが、飽くまで「凡そ」であって「必ず判る」わけではないのだ。
theology01-03.gif 『北斗の拳』連載当時の儂は、口惜しきかな北斗istとしての意識に乏しく、残念ながら『北斗の拳』連載時の『週刊少年ジャンプ』を一冊しか保管していない。だから連載時『北斗の拳』がどういう形で掲載されていたか、244話分は確認出来ない状態である。故に連載時『北斗の拳』がどうであったか、記憶と史料で「凡そ」判っても確認は出来ない。
 左図JC01:038を御覧頂こう。さて、諸賢はこの頁をどう思われるだろうか。捨て頁だろうか、ジャンプ掲載時からあった頁だろうか。

 一見この絵は捨て頁のように見える。だが物語の経過を見るとある方が佳い。リンの心情、ケンシロウの心情、物語の意味が強調された佳い頁だ。然しなくても問題ない。飛ばして読んでもちゃんと前後が繋がっている。さて、諸賢はどちらとお思いであろうか。
theology01-03-2.jpg 幸い儂が唯一保管しているジャンプは1983年41号(左図)、即ち「新戦力加入」「巨弾新連載」の文字が輝かしい『北斗の拳』第一話掲載号である。北斗istにとっては記念碑的な遺物だ。よくこれだけでも残っていてくれたものだ。頂き物だが…。

 これで確認すると…この「ザッ」ははじめからあった。1983年41号に確かにある。あったことを確認してしまうと、前後の頁でケンシロウの顔が描かれていないことに気付き、そういえば要るなぁ、という程度にこの頁が必要であることが判る。漫画家は大友克洋など僅かな例外を除き凡そ顔を描きたいものだから、この頁は初出時既にあらねばならない。
 だが、こんなもん後知恵である。確認出来たから、そういえば要るなぁ、と思うだけで、それ以外は確認出来ないのだから、軽率にこれは捨て頁、これは初出時からある、とは判断出来ない。
theology01-03-3.gif JC01:038は儂が掲載号を持っているから確認できるが、次は確認出来ない頁を挙げる。左図JC06:016である。
 これはJC01:038とは違う意味で捨て頁とするか判断に迷う頁である。というのも、JC06:015まで四色カラーなので、軽率に判断しかねるが、多分捨て頁だと思う。然し、前後の頁を見ると、明らかにあった方が演出上"佳い頁"なのだ。ケンシロウこそ歪んで変な顔だが、上段の商店主の顔が實に佳い。このたった一齣の絵でこの商店主の人柄を想うてしまう。この商店主はアニメで「エラリー」という名を与えられ、ケンシロウと再会を誓うなど可成り恰好良く演出されていたが、それもこの絵が佳かったからだろう。他の齣では随分小さく描かれていて、この大齣を跳ばして読むと魅力は半減だ。ジャンプ掲載時のままならああも格好良く演出されなかっただろう。
 この"佳い"という価値判断をどうしよう。先づどの時点を以て『北斗の拳』という作品が完成したかを考えねばなるまい。
 『北斗の拳』が完成したのは、果たしてジャンプ掲載時なのか、単行本収録時なのか。ジャンプ掲載時という意見が多かろうが、近頃はそうとも言い切れぬようになっていると思う人も増えているだろう。というのも、冨樫何某と云う男が、ペン入れをせぬ原稿を提出し、ジャンプもそのまま掲載しているらしいではないか。胸に「闘」の字を刻み仲間を応援した冨樫とは、同じ姓でも随分違う。なんと見下げ果てた男よ。こういう例があると、ジャンプ掲載時が完成とは言い切れぬではないか。
 また、これは昔からよくあるが、ジャンプ掲載時には完結せず、単行本収録時に加筆されて初めて完結する『聖闘士星矢』や『竜童のシグ』のような作品もある。この例を見るに、どうもジャンプ掲載時を以て完成とは云いにくい。単行本収録時こそ完成ではないか。
 原哲夫は休載はしても下書きを掲載するような真似はしない。打切作品でも結末を加筆したりしない。だが、矢張り『北斗の拳』もジャンプ掲載時を以て完成とは云えぬような気がする。JC06:016のような"佳い絵"があるなら、単行本収録を以て完成としたいではないか。

「缺落頁」

 更に、儂が確認出来るのは下図第一話の見開き頁のみだが、単行本には収録されていない頁が幾つかある。記憶違いでなければどれも見開きの一枚絵で、どれも愛蔵版の表紙として入手出来るが、どれも初出がいつか判らない。

theology01-03-4.jpg

 ジャンプ掲載時の状態を重んじるなら、これを数えないといけないが、儂にそれを確認する術はなく、タケカワユキヒデへの伝手もない*12。この「缺落頁」を如何にするべきか。

結局単行本準拠に

 散々迷うた末、儂は諦めた。「〜〜の巻」の最後に入った捨て頁は明らかに判るので除くことにしたが、「〜〜の巻」の間に入った捨て頁は除かず、缺落頁と相殺したということで、考えないことにした。「〜〜の巻」の末にある捨て頁は蛇足だが、「〜〜の巻」の間にある捨て頁は話に馴染んで除き難い。ならば缺けても通用する缺落頁は初出時から馴染んでいなかった筈だ。ならばなくてもかまうまい。確認出来ないし、単行本をテキストとすることで諦めた。

 というわけで、分析は単行本に基づいて缺落頁は数えず、捨て頁は「〜〜の巻」末のみ除き、各篇「〜〜の巻」単位で分割、各話頁数の多寡は無視した。

 以上で分析法の検討を終える。この分析法を取り敢ず「均等分割分析法」と呼ぶ。

ロシヤ・フォルマリズムというのもある

魔法昔話の三十一機能説

 さて、これで分析の準備は出来た。では、この分析法で出た結果を如何に扱うか。
 以上の方法で、『北斗の拳』の三十一篇は内容の長短を問わず、均等に三つの仕切で四段に分けられた。その一々を三十一篇横並びにして共通する要素と構造を見出し、その展開に何が関わっているかを抽出、類型化する。
 この方法はロシヤ・フォルマリストのウラジーミル・プロップ*13が行うた魔法昔話の研究を参考にしている。ロシヤ・フォルマリズム(形式主義)とは1910年代半ばから1920年代末にかけてロシヤで展開された文学運動で、文学そのものではなく、ある作品を文学作品たらしめている文学性を重んじ、自然言語のみならず、小説や映画にも固有の文法があるのではないかと主張し、旧来の文化史や哲学に拠った文学研究を批判して、言語表現の方法と構造乃至形式を明らかにしようとした思想で、プロップはアファナーシエフが蒐集したロシア民話のうち百篇を素材に比較、魔法昔話の三十一機能による類型構造を偶然に発見し、1928年、そのことを『昔話の形態学』に著して出版している。霞拳志郎が金克栄と闘うよりまだ前のことだ。
 プロップは同書で昔話の恒常不変の要素が登場人物の機能であり、その機能はどの人物がどのように実現しても問題ではなく、機能こそ昔話の本質的な構成要素であり、然もその機能の数は限られていると主張、その例として以下の四つの魔法昔話を挙げた。

  • 王が勇者に鷲をあたえる。鷲は勇者を他国へ連れてゆく。
  • 老人がスーチェンコに馬をあたえる。馬はスーチェンコを他国へ連れてゆく。
  • 呪術師がイヴァンに小舟をあたえる。小舟はイヴァンを他国へ連れてゆく。
  • 王女がイヴァンに指輪をあたえる。指輪の中から現われた若者たちがイヴァンを他国へ連れてゆく。

 この四篇は一見違う話のようだが、文節を下記の如く揃えてみると…

○○が●●に▲▲をあたえる。▲▲は●●を他国へ連れてゆく。
王が勇者に鷲をあたえる。鷲は勇者を他国へ連れてゆく。
老人がスーチェンコに馬をあたえる。馬はスーチェンコを他国へ連れてゆく。
呪術師がイヴァンに小舟をあたえる。小舟はイヴァンを他国へ連れてゆく。
王女がイヴァンに指輪をあたえる。指輪の中から
現われた若者たちが
イヴァンを他国へ連れてゆく。

 このように、この四篇は、何かを与える人物の名も、貰う人物の名も、貰う物も話毎に違うているが、誰かが何かを与える、何かが誰かを他国へ連れ去るという物語の構造に於いては全く同じであることが判る。この場合、重要なのは「スーチェンコ」や「イヴァン」と云った人物、「鷲」や「指輪」といった動物、道具はフリンジ(飾り)に過ぎず、「AがBにCを与える。CはBを他国に連れて行く」という登場人物(及び魔法、道具の効果)の行為にこそ意味がある、ということである。その行為=機能を分類すると三十一しかなく、ロシヤの魔法昔話に於いてその順序は決っており*14、繰返す乃至缺落することはあっても三十一以上にはならない、とプロップは説いた。

 『北斗の拳』はロシヤの魔法物語ではないので、プロップの三十一機能説が当て嵌まるとは思わぬが、『北斗の拳』を三十一篇の物語として考え*15、比較すると、或いはプロップが見付けたような類型が発見出来るやも知れぬと思い、プロップを真似ることにした。

登場人物の分類

 先程人物や道具はフリンジ(飾り)に過ぎぬと書いたが、それでもざっと見較べるとある程度法則が読取れる。例えば、『北斗の拳』で自ら死期が近いことを知りながら戦いに身を投じる者は白髪であるとか*16、盲目の者は人を待つか探すか囚われるかしている*17など、その役割を充てられる人物にもそれなりの適性があり、身体的特徴が記号的にその人物の性格、性質を表象しているようである。

 物語に登場する人物の役割は七つ以上にはならないという説がある。これもプロップが発見した構造で、物語が喩えどのように複雑になろうと配役はたった七つ、人数が多ければ同じ役を幾人もが重複して演じ、人数が少なければひとりが違う役を幾つもこなす。要はその物語で誰が何をするかではなく、その物語で何が行われるかに意味がある、ということらしい。その七つの配役をプロップは"七つの行動領域"と名付けた。

七つの行動領域
1.敵対者/加害者主人公との格闘及び闘い、主人公を追跡する者。
2.贈与者呪具贈与の為の交渉及び贈与する者。
3.助力者主人公を移動させる、不幸或いは缺如を解消する、追跡から救出する、難題を解決を助ける、主人公を変身させる、などに関わる者。
4.王女とその父難題を課す、印を付ける、偽主人公の正体を暴く、主人公を発見/認知する、加害者を処刑する、主人公と結婚する、に関わる者。
5.派遣者主人公を派遣する者。
6.主人公探索に旅立つ、贈与者の求めに肯定的に応ずる、結婚する、に関わる者。
7.偽主人公探索に旅立ち、贈与者の求めに否定的に応ずる、不当な要求をする、に関わる者。

theology01-03-5.gif この説を基に、アルジルダス・ジュリアン・グレマス*18は右図「行為者モデル」なるものを考案、『構造意味論』にて発表している。
 「行為者モデル」は基本こそ七つの行動領域と同じで、複数人が一つを、ひとりが複数を担い、また缺落することもあるが、領域が六つに減っており、「主体」と「対象」、「送り手」と「受け手」、「援助者」と「敵対者」が対立する恰好で関係している。
 このモデルの支柱は「主体→対象」で、「援助者→←敵対者」は補助的な行為体故、缺けることが珍しくない。また「送り手→→受け手」はメタテクスト的であり、テクストの外の存在、例えば作者から読者へ、という場合もある。こう書くとまるで構造的缺陥のようだが、これは例えば作者が「送り手」として実体験で得た知識や経験を「受け手」である読者に授けるといったようなことだ。三つの対立、六つの行為しかない一方、個々の内外を表現出来るという物語の有限でありながら無限に等しい可能性を示す余地と云えよう。

 『北斗の拳』の分析では「七つの行動領域」「行為者モデル」両方用いる。分割した各篇の各段で何者が何をしているかを分類し、それを列挙することで、その行為を司る者が総じて持つ身体的、性格的特徴を見出すことが出来れば、『北斗の拳』の類型が露わになるやも知れぬ。その類型から意味を読取ることで、『北斗の拳』が如何なる物語であったのかが明らかになる筈だ。

aside

*1
2006/10/30.細部修正
*2
2007/01/19.大幅加筆
*3
*4
正平十八-嘉吉三年八月八日
1363?-1443/09/01?
 父の観阿弥とともに申楽(能)を大成した観世流の祖。1400年頃『風姿花伝』『至花道』、1436年(永享八年)『金島書』などを著す。
*5
 元々は西洋音楽の楽章に相当する雅樂の用語だが、後に申楽、連歌、蹴鞠、香道、兵法でも用いられるようになった。
*6
Aristoteles
前384-前322/03/07
 古代ギリシアの哲学者。プラトンの弟子で、アレキサンダー大王の家庭教師を務めたことでも知られる。ソクラテス、プラトンと並び称される西洋最大の哲学者の一人で、また多岐にわたる自然科学への業績から「万学の祖」と呼ばれる。
*7
 元々は漢詩の用語。絶句(四行詩)の一行目を起句、二行目を承句、三行目を転句、四行目を結句と云い、起承転合とも云う。転じて作文、物語の構成に用いられる概念になった。起承転結の例として、頼山陽の「京の五条の糸屋の娘/姉は十六妹十四/諸国大名は弓矢で殺す/糸屋の娘は目で殺す」がよく知られる
*8
*9
 夏目房之介以降のマンガ表現論に基づく説。「キャラ」は絵或いは線を含み、「コマ」は時間の推移を司る…らしい。
*10
 確か唐沢俊一が云うていたことだ。要約すると下記の如し。
 ネット環境が整って、今や出版に拠らずweb上で自作の漫画を公開する作家が増えているが、漫画というものは書籍を前提としている為、書籍の形態に縛られた上に漫画表現の様式が成立っている。が、web漫画では、書籍に基づく様式を蹈襲する意味はなく、寧ろ表現上様々な制約がある。齣や見開きといった漫画様式をweb漫画で再現する必要も必然性もない。そう考えた場合、web公開に向いた漫画的表現としては、現在の漫画より紙芝居の方が向いているのではないか。
 出典が思い出せぬので、もしかすると唐沢俊一ではないかも知れぬが、紙芝居、という辺り如何にも唐沢的であろう。何で云うてたんだろう。
*11
 儂は『北斗の拳』連載当時、毎週愉しみに『週刊少年ジャンプ』の発売日を待侘びて育った。故に『北斗の拳』のどの話も、物語展開上の軽重はさておき、毎週愉しみに待った話である。頁数の多寡は関係ない。18頁でも24頁でも一週分は一週分、その価値は等しい。週刊誌連載漫画とはそういうものだ。故に頁数の多寡は考えなかった。
*12
 この四十年の間の週刊少年マガジン、週刊少年サンデー、週刊少年ジャンプを全て別荘に保管している…という話を聞いたことがある。いいなぁ。
*13
Vladimir IAkovlevich Propp,
1895-1970
 ロシヤ形式主義の民話研究者。『昔話の形態学』で知られる。
*14
 實は後でテキストを調べてみるとプロップが恣意的に順序を操作している処もあるというが、それは解説を簡単にする為で、瑕ではあるが研究内容の評価を覆すような問題ではないという。
*15
 三十一という数字が一致しているが、偶然である。試しに三十一機能を三十一篇に対応させてみたが、相応する処もあり、合致しない篇もあり、いまいち馴染まなかった。
*16
 新血愁を点かれ死に臨み、心霊台で僅かに寿命を延したレイの髪はその苦しみで総白髪と化した。
 カサンドラから助け出された時より死兆星が見えていたトキの命は、その台詞から推測するに登場から死まで一年もなかった。
 南斗聖拳では南斗最強の鳳凰拳伝承者サウザーには勝てぬと知りながら、ケンシロウの為、子どもたちの為戦いを挑んだシュウも総白髪だった。
 登場してからすぐに死んだリュウガは何の説明もなく初めから白髪だった。
 よく金髪だと考えられているラオウ様とカイオウは、どちらも紫がかった銀髪である。銀髪まで白髪とするなら、確かにラオウ様は最強の北斗であるケンシロウに、カイオウは北斗宗家歴代最高の天才であるケンシロウに、負けること覚悟で戦いを挑んだ。
*17
 ジャギに攫われ転々と売り買いされたアイリは自らの境遇に嘆き目を潰し流されるままに生き、牙大王に人質にされた。
 ケンシロウの為に目を潰し、サウザーと戦いながらケンシロウを待ったシュウは、最後は囚われ、ケンシロウの到着を待って死んだ。
 ルイは囚われて、暗い地下壕でモグラのように水を堀ながら命を繋ぎ、その為に失明、ファルコらの助けを待った。
 ラオウ伝説を信じ救世主到来を待った赤鯱と、ラオウ伝説を信じながら待てなかったシャチは、それぞれ片眼づつ失うている。
 バルガを農奴にせん為にコウケツに囚われたシンゴは栄養失調で失明していた。
 ケンシロウに目を潰されたボルゲはケンシロウへの憎悪に囚われ、ケンシロウを捜しつづけた。
*18
Algirdas Julien Greimas,
1917-1992
 言語学者。文化人類学者。

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