北斗門の創始と分派

北斗神拳創始縁起

 平成十九年二月現在、『蒼天の拳』では北斗神拳創始にまつわる因縁について描かれている。何でも創始者シュケンは西斗月拳に入門して経絡秘孔の知識を学び、これを北斗宗家拳に加えて北斗神拳を創始したといい、拳志郎が歩いた仏塔には「天破の構え」を写した像まであったことから、北斗神拳の奥義の多くが西斗月拳由来であることが解る。然しその周囲の細々としたことは描かれる様子がなく*1、矢張りある程度假説を立てて補完する必要がありそうだ。

続き

北斗宗家=禹王の血統?

 北斗神拳の歴史は千八百年だが、それより古い北斗宗家の発祥は詳らかでなく、カイオウによると「この国の/4千年の/歴史の間/には/ラオウ伝説/以前にも/救世主伝説は/あった!!─中略─その男たちこそ/まさに北斗神拳の/伝承者で/あったのだ!!」(JC:21:038)とあり、これを解釈するしかない。
 先づ「この国の/4千年の/歴史」というが、北斗神拳は中国拳法であると第一話に明記(JC:01:045)されている為、議論の余地なく「この国」とは支那である。処が實は支那は黄帝紀元四千七百年というて、尋常には中国は「五千年」であり、我が国でよく知られる「中国4千年」とは糸井重里が「語路が良いから」と言い始めたに過ぎず、ちっとも面白くないことを云えば武御大乃至堀江御大が糸井重里の影響を受けて「4千年」と書いたと考えるのが筋である。
 が、これを最大限好意的に解釈して、事実北斗琉拳(劉家拳)の伝承に曰く真実「4千年」であったとするなら、それは劉家拳の起源となる北斗宗家の伝承に「4千年」とあるのだろう。カイオウが「4千年」と云うた時期を儂は西暦2000年冬と推定しており(年表参照)、西暦2000年の四千年前といえば丁度"禹王"が夏王朝を興した頃である。「4千年」を「紀元4千年」と読むならそれは夏禹紀元であり、この夏禹紀元で北斗宗家が年を数えるのであれば、北斗宗家は夏王朝の頃に発祥した一族であろう。儂は北斗宗家が禹王の血縁ではなかったかと考えている。
 禹王については詳しく述べておく。禹の父は鯀と謂う。『史記』夏本紀に拠ると、鯀は五帝の一人    の子で、    は昌意の子、昌意は黄帝の子であったから、禹王は黄帝の玄孫にあたる。黄帝は姓を公孫、名を軒轅といい、神農氏を倒して三皇の治世を継いだ五帝の筆頭に数えられる伝説的帝王で、支那文明の始祖にして道教の最高神格"天帝"と同一視される*2が、当時は世襲ではなく禅譲によって帝位が継承される治世であった為、鯀は黄帝の曾孫にしての子であったが帝位に就かず世は帝堯(五帝の一)の治世で、鯀は帝堯の臣であった。この頃黄河は氾濫が止まず、帝堯が治水を任せる人物を求めた処、群臣は鯀を推挙した。帝堯は鯀の人柄を疑うて登用を渋ったが、尚も群臣が推した為仕方なく鯀を任命、工事にあたらせたが、案の定九年経っても成果が上がらぬ。帝堯は鯀を更迭して舜を登用、舜が視察に赴いた処、鯀が何の成果を上げておらぬ為、東方の羽山に押込めて死に至らしめ、鯀の遺児禹を司空に推挙し事業を引継がせた。禹は衣食を倹約して鬼神の供物を豊かにし、家宅を質素にしてその費用を潅漑に回し、諸侯百官に命じて挑撥した人夫を全土に配置、家を出て十三年間一度も帰宅せず、自宅の門前を通りかかっても休息せずに働き詰め、九州(当時の中国全土)を巡り九山を治めて九河の水路を定め、竟に全土を等しく治め事業を成した。帝舜(禹の事業中に禅譲を受け五帝の一になっている)は禹の徳を認め後継者に指名、その十七年後帝舜が崩御すると、禹は三年の喪に服した後帝舜の子商均に王位を譲って陽城に隠居しようとしたが、諸侯はみな商均の許を去って禹を仰いだ為、禹は推されて天子の位に就き、直後帝堯以来の名臣皋陶を後継者に指名したが、皋陶が在位中に亡くなった為、次いで同じく帝堯以来の名臣益を後任に指名、政務を任せて十年後、行幸先の會稽(『山海經』中山経では禅渚)にて崩御、後を譲られた益は三年の喪に服した後、帝舜禹王に倣うて禹の子啓に位を譲り箕山に隠棲した。啓は聡明にして人望厚く、また益が政務を見た期間が短く世に知られていなかった為、今度は諸侯も啓を仰ぎ、禹王が興した夏王朝は支那史最初の世襲王朝となった。
 「夏王朝」は遺跡こそ発見されぬものの実在したと思しき王朝であるが、始祖禹王は抑も洪水治水を司る神であったらしく、「禹」の古い字形は二匹の蛇が交叉した恰好であることから、夏の宗族が二匹の蛇乃至龍をトーテムとし、禹はその宗族の神であったとする説があり*3、また『莊子』盗跖篇巻第二十九に「堯は不慈、舜は不孝、禹は扁枯なり」とあり『山海經』にある魚の項にも同じく「扁枯」とある為、禹王が魚形の神格であったと推測する白川静の説もある。「扁枯」とは中風などによる半身不随を謂う語で、『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とあり、『列子』楊朱第七では寝食を忘れて働き詰めた禹王は病み疲れた為に片脚を引き摺る乃至跳ねて歩くようになったと説明している*4。『山海經』に拠ると、禹は名山五千三百七十を巡り道程は六万四千五十六里に及んだとあり、この長旅に因んで旅の安全を守護する「行神」として信仰され、支那の旅行者は禹王の歩法を真似て旅の安全を願うたという。これが地を北斗七星の形を踏んで清める呪術「禹歩」として民間信仰に取入れられ、道教の祭祀、更には仏教の祭祀にもしばしば用いられるようになった。一説に八卦掌の「走圏」も素は「禹歩」だったといい、我が国にも伝来して陰陽道の「反閇」となり、能に取入れられて「弱法師」となり、更に柳生新陰流にも伝わった。元々神官だった力士の四股も「禹歩」若しくは「反閇」に由来する。
 もし北斗宗家が夏禹紀元で以て四千年を数えるなら、北斗宗家が夏王朝の頃から存在したか或いは夏王朝の縁者であったとの推論は充分に立とう。とすると、その始祖禹王に因む「禹歩」は窮めて「七星点心」に似ており*5、この「七星点心」を伝承する北斗宗家は禹王の後裔ではないか、少なくとも近しい血筋のものではなかろうかと考えられる筈だ。そうでなくとも禹王は黄帝の玄孫であり、黄帝は一説には天帝とされ、北斗神拳が興った後漢末には既に黄帝と"天帝"は結びつけられていた*6。その"天帝"を守護する北斗宗家が"天帝"の一族であっても不思議はなく、孫家拳の師父も「始祖の拳を/継ぐ者は/天帝の守護神の/血を継ぐ者」と云うている(BC:04:066)。つまり北斗神拳伝承者も神の血を継ぐわけだ。ならば北斗宗家を神である禹王の後裔とすることに問題はなかろう。因みに夏王朝は十七代桀王で商の湯王に滅ぼされたが、禹の後裔は商代に夏亭、周代に杞(河南省杞県周辺)に封じられてBC445年に楚に滅ぼされるまでは続いている。後は儂は知らない。

地中海の救世主伝説との類似

 余談であるが、山形孝夫に拠ると、紀元前後世紀頃から後五世紀までの千年間、地中海地方に於いて遊行神=旅をして貧民や病者を救う救世主への信仰が流行したという。ギリシアの酒神ディオニソスや医療神アスクレピオスなどが該当し、起源は古代オリエントの農耕神に発し、イエス・キリストへの信仰もそのひとつである。農耕神は穀物と同一視され、穀物は鎌で刈取られて収穫=死を迎えても種となり蒔かれることで甦生する為、食物としての豊かさへの信仰の他、死を克服する不死のイメージを見出しているわけだ。古代オリエントの農耕神は農耕が雨季や川の氾濫と関わる為洪水乃至治水も司り、種子或いは農具が母性の象徴である土を穿つことから男根信仰に結びつき、それが巨石や蛇に対する崇拝に変化、脱皮する蛇が不死と結びついて医療神の属性を獲得する他、酒が穀物から出来る為か酒造や幻視体験*7とも結びつく。
 つまり遊行神は救世主であり、農耕神であり、洪水神乃至治水神であり、男根神であり、巨石神であり、蛇神であり、酒神でもあり、甦生神であり、医療神でもあるが、この特徴を可成りの部分禹王も具えている。先づ禹王は九州を巡った遊行神であり、洪水神乃至治水神であることと農耕神であることは同じで、「禹」の字形が交叉する二匹の蛇であることから蛇神であったらしく、蛇はその姿から容易に男根と結びつく。また巨石崇拝については禹王は治水工事の折、熊に変化して働いていたという伝説があり、その姿を見て驚いた妻が子を孕んだまま岩となり、禹王が「わが子を返せ」と呼ばうと石が割れて子の啓が生れたという。また酒については、朱翼の『酒経』に禹の官僚儀狄が桑の葉で包んだ飯を発酵させて作った酒を禹王に献上した処、こんな旨いものがあるとこの先酒で国が滅んでしまうから、と酒造を禁止したとあり、案の定十七代桀王は酒で国を滅ぼしている。酒を禁止する側だが、これが酒にまつわる支那最古のお話だという点は無視出来ない。
 地中海の遊行神=救世主も元々は国を治める王の権威と結びついていた為、禹王の造形は窮めて地中海の遊行神と似ていると云える。これを假に同じ…と結んでしまうと、禹王に流離い旅する救世主というイメージを見出すことが出来、もしこの禹王が北斗宗家の祖であったなら、救世主になったケンシロウの放浪癖は禹王からの遺伝ではなかろうか。

後漢末〜三国時代の仏教

 閑話休題。
 北斗宗家の経歴で明らかなのは、シュケンとリュウオウの悲話からである。詳しい説明は『北斗の拳』(JC:24:008-024)をあたって貰うとして、さてこれはいつ頃のことであろうか。先づ北斗神拳の創始は千八百年前である。年代を正しく数えれば、まだ支那史は三国時代(220-280年)に入っておらず、もし三国時代のことであれば、「北斗宗家を/守護する/高僧たち」が「困惑」するのが遅すぎる。後漢末期の黄巾の乱(184年)に始まる争乱の方が遙かに「狂乱の戦国の時代」と呼ぶに相応しい。
 北斗宗家は仏教徒である。この頃仏教徒と云えば揚州の  融が庇護していたくらいしか記録がない。  融は精強ながらすぐ裏切る兵の産地として知られる丹陽の人で、揚州刺史劉  と同等の力を持つ賊の頭領であった。はじめ徐州刺史陶謙に仕え、広陵彭城で兵糧輸送の監督官に任じられたが、物資を恣に横領し、その後曹操の徐州侵攻に際し逃走し自立、揚州が呉の孫策に攻められた時には劉  と協力して戦うたが、敗れて劉  共々豫州に逃亡、然し此処で略奪を恣にし、豫章太守諸葛玄を殺害、後任の朱皓まで殺して悪逆の限りを尽した後、反目した劉  と争うて敗走、最期は領民に囚われなぶり殺しにされている。一言で云えば田舎ヤクザみたいな奴だが、どうやら仏教は真面目に信仰していたようで、楚王劉英(?-71)が道教の神の如く仏陀を祀っていた為、  融が赴任していた居た彭城には当時沙門(僧侶)優婆塞(在家信者)が居たそうで、『後漢書』陶謙伝によると  融は陶謙から横領した物資で揚州に三千人は収容出来よう壮麗な大伽藍を建立し、広陵及び近隣の民に出家を進め、灌佛會(佛誕會 陰暦四月八日)には盛大な法要を執り行い寺に至る者實に五千人に及んだという。経歴を見るとただの悪漢だが、仏教にとっては支那に広まる地盤を固めた功労者でもあり、三国時代に入ると  融が暴れ回った豫州揚州を領した呉帝孫権が仏僧康僧会の為に健初寺を建て、康僧会と支謙に命じて経典を翻訳させるなどしているなど、  融以後仏教はすっかり呉で根付いていた。
   融が活躍し仏教を根付かせた徐州、揚州、豫州は周代に禹王の後裔が封じられた杞国、禹王が崩御した會稽郡に程近く、また北斗宗家がシュケンとリュウオウを試した「降天台」が泰山か會稽山の封禅台であれば、これも近い。この辺りは後漢明帝の頃から沙門優婆塞が住んでいた他、三国時代に入ってからも南方経由で大月氏と交流があった。支謙は洛陽経由で呉に訪れた人だが、康僧会は交州で生れたインド商人の子であった。

後漢末〜三国時代の医術

 此処で我々北斗istが注目すべきは、この頃の鍼灸術である。先づ三国時代に鍼灸(経絡経穴の知識)と導引法に通じ"神医"と呼ばれた名医華陀(?-208年)は豫州に属する沛国  県(安徽省亳州市)であった。華陀は"麻沸散"なる薬を用いて世界初の全身麻酔に拠る開腹手術を行うた他、"五禽戯"なる鶴、猿、熊、鹿、蛇の動作を取入れた引導法(健康体操)を考案しているが*8、この動物の動作を取入れるという発想が幾分ヨガ的で、然も支那の経絡経穴の知識は支那最古の医学書『黄帝内経』のに基づき、これは前漢初期には既に成立している為、『蒼天の拳』にあるが如く経絡秘孔の知識が全て西域伝来であるわけではないが、華陀の代でそれまで方術(おまじない)と同じだった"医術"が突然"医学"に発展し、『黄帝内経』に記された経穴が僅か百六十に過ぎなんだのに、皇甫謐(215-282年)の『鍼灸甲乙経』でいきなり三百四十九穴に倍増しているなど、後漢末から三国時代にかけて妙に呉国周辺で医学、特に経絡経穴の知識が発達している。まさか自力でこのような発展を遂げるとも思えず、どうも大月氏経由でインドのアユール・ヴェーダ医学のプラナ説、、ギリシアのヒポクラテスが創始したユナニ医学の四体液説などの知識を得た結果ではあるまいか*9、と愚考するのだが、もしそうだとすると、その嚆矢となった華陀は北斗宗家の者ではなかったか、と思う。というのも、鉄心、拳志郎、羅門の姓「霞 xia」は夏王朝の「夏 xia」とほぼ同音(語尾の発音が少し違う)で、支那には「中夏」という語があるが、これは「中華」と全く同じ意味で、この場合、華陀の姓「華 hua」と「夏 xia」は同じ意味である。華陀考案の"五禽戯"も、様々な武術にも取入れられた引導法であるが、五禽(五種の獣)の内、熊と蛇は禹王の伝説に関わる獣で、もし影響があるとすれば、北斗宗家由来であろうと考えられるからだ*10

北斗神拳創始時期

 北斗宗家の在所を徐州揚州豫州周辺であると假定した場合、宗家の高僧たちが「狂乱の戦国の時代」を感じ「困惑」しながら歩いた時と場所は、恐らく曹操侵攻後の徐州であろう。通説では興平元年(194年)春、曹操の父曹嵩が一族を連れて陶謙領内を通る折、陶謙は護衛を付けて送ろうとしたが、その護衛が一行の財産に目が眩んで曹嵩らを殺害、財産を持ち逃げしてしまい、夏、激怒した曹操は大軍を率いて侵攻、鶏や犬が鳴く声さえなく死体で河が堰きとめられたと記録される程の大虐殺を行うた。一説には陶謙自身が曹嵩を殺害し、自ら天子と名乗る気違い(宗教者)闕宣と結託して曹嵩を殺害した泰山周辺を襲うているというが、それは兎も角、曹操は父を殺された怨みから徐州を攻めて生類を殺し尽している。この時、曹操の領内で謀叛があって、曹軍は陶謙の馘を取らずに撤退、陶謙は命拾いしたが、その年の内に病を得て、己の子が揃って不出来である為、徐州を劉備に譲ってこの世を去っている。陶謙という人は清濁併せて呑める男で、どちらかと云えば剛毅な気質であった。そんな男が寿命を縮める程、この戦は酷かったということだろう。将に「この世の/終り」と思える「地獄絵」(JC:24:009)、これは北斗の高僧たちが「新しき無敵の/暗殺拳を創始/できる」「真の救世主と/なろう」「覇者」を望みそうな(JC:24:010)事件だ。この年既にシュケンとリュウオウは誕生しているが、未だ乳児である為、生年は193年と推定出来る。
chronological200702060000.jpg さて、後は降天台でシュケンが選ばれて西斗月拳に入門、点穴の奥義を偸んで北斗神拳を創始したわけだが、創始の後、北斗神拳は三家拳に分派する。ギーズ大佐に拠ると「『三国志』の/時代/孫家/曹家/劉家の/三英雄を/守護するため/分派した」(BC:03:067)そうだが、この頁にある地図(左図)では荊州をまだ蜀漢が領有している。蜀漢の荊州喪失は建安二十四年(219年)なので、分派は劉備が荊州を領有して蜀を平定した建安二十年(215年)以降、建安二十四年(219年)までのことだ。うわぁ、まさかたった四年の誤差しかないとは思わなんだ。この時、シュケンは数二十三〜二十七歳、恐らく西斗月拳を学び終えたのがこのくらいの年頃だろうから、三国鼎立が確実となったこの時勢であれば、成程「北斗宗家の/高僧たち」(BC:15:148)が「西斗月拳の/秘術を封印」(BC:15:153-154)をシュケンに命じたことは一応筋が通る。但したった四年の幅しかないこの期間に北斗神拳が三派に分れるというのも考え辛く、故に孫家拳、曹家拳、劉家拳の始祖となった者たちは恐らくシュケンの弟子ではなく兄弟たち*11であろう。劉家拳の始祖がアニメ『北斗の拳2』で断定しているようにリュウオウであるとするなら、孫家拳、曹家拳もリュウオウに類する、然し宗家を継ぐ資格がない外戚などの兄弟であろう。これなら別記事で書いたような劉家拳に対する優遇も理解に易い*12。シュケンが「西斗月拳の/秘術を封印」した後、それぞれ操気術、剛拳、軽功硬功を磨いてきた兄弟たちと一堂に会し、交換伝授の後、それぞれ孫権、曹操、劉備を守護する為、三家拳の祖は三国に散ったのだと思う。その後、北斗の点穴術で殺されたと思しき人物に司馬師がいるが、これは取立てて論う話でもなかろう*13
 後の分派の経緯は、北門拳は全く解らず、無明拳は明らかな上に真実とは認め難き為無視するとして、残りは極十字聖拳であるが、これも技法こそ謎ではあるが経緯は明らかである故論ずることもあるまい。

跋文

 今回は難しくなった上に断定し憎い内容になった。また何か新情報が出れば書き改めると思う。

aside

*1
 堀江信彦御大、原哲夫御大はともに連載漫画の設定は後付でもよく、また完璧に積めず読者の想像の余地を餘した方が良いと考えている為、エピソードのみ描き終えればそれ以上細かく補完することはないだろう。
*2
 但し玉皇上帝に譲位しているとも、今は関聖帝君が即位しているとの説もある。何でも道教の神の地位は選挙制だそうで、人気が増すほど地位が上がるそうだ。故に今では世界最大と噂される関聖帝君が天帝だという説がでる。その一方で玉皇上帝を信奉する派では、天帝の地位はポイント制で、一度もミスすることなく善行を行い得点を十万点獲得すると天帝に即位出来るそうだ。流石漢民族、という感じの制度である。
*3
 レヴィ=ストロースはトーテムというのは単に氏族を区別する為の記号であって充てられる動物と氏族は別段関係なく、物事を区別する為の記号は違いが解る身近なものから選ばれるに過ぎないとしてトーテムの概念そのものを「幻」「文明人の勘違い」と切捨てている。但し初めはそうだったとしても「蛇族」なら「蛇族」と呼ばれる内に蛇に似てくるということはあるだろう。
*4
 「禹は扁枯なり」を後世合理的に説明しようとして出来たお話である。正解かどうか解らない。
*5
 片足を引き摺る「禹歩」が武術の奥義になるなら、ファルコとの闘いで片足を封じたケンシロウの行為も「七星点心」を強化する為の奥義であった可能性がある。この時、ケンシロウはフラフラしていたが、柳生新陰流の奥義「弱法師」は将にフラフラあるく歩法で、あのフラフラもダメージ故とは限らない。「ファルコ戦でケンシロウは手を抜いた」とする説は、以上のことを前提に、ケンシロウの拳士としての矜恃を信じる意味もあり、賛成出来ない。
*6
 天帝は漠然と宇宙を主催する神格として考え出された為、これを黄帝と同一視するのは後世の思想であるが、前漢の頃には既に読書人は黄帝と天帝を同一視するようになっていたので問題はない。
*7
 古代オリエントの酒といえば葡萄酒と麦酒だが、一般には麦酒が流通し、葡萄酒は貴族の口にしか入らなかった。酒神が幻視体験と結びつくのは多分麦酒中の麦角菌でトリップするからだろう。まさかアルコールだけで幻視体験は出来まい。念の為に麦角菌を研究する過程で発見されたのがLSD(Lyserg Saure Diathylamid 幻覚剤の一種)である。
*8
 太極拳は五禽戯を套路に取入れているから健康によいらしい…が、『太極拳血戦譜―いま明かされる伝説と真実』によると、太極拳の名人と少林拳の名人の歿年を比較してみると、別に太極拳の名人が長命ということはなく、太極拳だけが健康によいというわけではない。
*9
 新しい宗教は往々にして医術とともに登場するもので、「黄巾の乱」を新興宗教「太平道」も民の病を癒す奇蹟で以て伸張し、キリスト教も我が国に伝来した時は優れた医術とともにやってきた。勿論外交を伴うて伝来すれば、経済や技術とも関わる。
*10
 勿論こういうことを考える遊びである。信じちゃいない。
*11
 漢人は従兄弟などの親戚でも同世代(祖から数えて何代目、という意味)であれば年齢関係なしに兄よ弟よと呼び合う。此処での「兄弟」とはそういう広義の「兄弟」で、同じ親から生れた肉親とは限らない。
*12
 どういうわけかリュウケンジュウケイの代で卑しめられているが、これには劉宗武かその子が魔界に落ちるなどした為だろう。
*13
 魏の簒奪した司馬炎の父で、曹氏の一族を誅殺し、朝廷の実権を恣にした。255年に毋丘倹・文欽が謀叛すると自ら討伐するも、その際手術した持病の目の瘤が帰陣後悪化、片眼が飛出た為、余命を悟り弟の司馬昭を召出して遺言を託し、この世を去った。享年四十八。

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