大乗南拳創始伝説

メモ*1
 大乗南拳創始伝説を捏造しました。
続き

大乗南拳縁起

 隋暦開皇年間のことである。
 科挙に合格し、温宰相の娘温嬌を娶った海州の陳蕚は、その聡明を認められ、江州長官に任じられた。処が江州赴任の道中、温嬌に懸想した船頭劉洪が陳蕚を殺害し、その亡骸を河に棄て、劉洪が陳蕚に成り済まし、江州長官になってしまうた。
 温嬌は一度は夫に殉じようと考えたが、身籠もっていた為に泣く泣く劉洪に従うて、こっそり子を生むや、書状を認め赤子の足の小指を噛み切って目印とし、板に乗せて子を河に流した。流れた赤子は金山寺の和尚に拾われて、玄奘の名を与えられ、齢十八まで平穏に育てられた。
 書状により玄奘は己の出生を知って母と再会すると、劉洪に出遭う前に病を得て宿に残したままだった陳蕚の母に会うよう命じられた。その道中、玄奘は異人と出会い同道する。すると玄奘の祖母は乞食に身を落し盲になっていた。然しその祖母の目を異人が治癒、更に「奸賊劉洪が悪行、即ち是を正すべし。温相(温嬌の父)の兵を以て洪を殺し事成就して陳公沈む河にて法用を勤修されば孝成りて父母再び幸を得ん。その後まだ迷う処あれば授く伝書を用いて西へ赴くべし」と二冊の書物を玄奘に授けて立去った。玄奘は異人の言葉に従い、温宰相の兵を以て劉洪を討ち、陳蕚が沈む河にて法要を営んだ。すると河から生きた陳蕚が現れて、温嬌を抱擁する。一頻り再会を喜び合った後、陳蕚は龍王に助けられたと話した。玄奘たちはあの異人こそ龍王ではないかと噂した。
 再び平穏を取戻した玄奘は寺に戻り日々精進の生活に戻ったが、己が知る仏法が小乗であることに気付き、異人に授った書物を開くと、それは西域への地図と武術の伝書であった。玄奘は修行して武芸を修め、国禁を犯して出国、河西回廊を経て高昌、天山北路を通り天竺ナーランダ僧院に至る。其処で異人に再会、玄奘は五年間異人に教学と武術を仕込まれ、六百五十七部の経典を携えて帰国、太宗の勅命にて弘福寺翻経院で梵経の翻訳する傍ら仏弟子に護法の為として武芸も授けた。

歴史的検証

 この創始伝説によると大乗南拳は玄奘三蔵が天竺より持帰った拳法である。然し玄奘の縁起は事実ではない。というのも、この縁起は『西遊記』の三蔵法師の縁起の内容とほぼ一致するが、実際の玄奘は十歳のとき兄の長捷とともに洛陽の浄土寺で出家し、十六の時長安、成都にあったことが解っている。但し隋末の動乱期であった為、もしかすると"異人に武芸を学んだ"という辺りは事実をある程度反映しているかも知れない。
 大乗南拳は玄奘三蔵が西域取経の折持帰った劈打を主とする護法の拳で、行者棒術七十二式、万獄鎖、降魔杖(双同異太刀)などが伝わっているが、一部の機械武術が北斗劉家拳の自壊羅糸などと似ている為、伝説に云う異人=龍王とは北斗宗家の伝説に現れるリュウオウの後裔ではないかとする説がある。確かに『大乗南拳護法経第三十三品』に曰く「北斗星司死、北斗出現哀話開胸襟。蒼震北斗即開道」と大乗南拳の伝書にも北斗との関連を臭わせる記述がある。「蒼震」は「蒼く震える」と読むが、「蒼」と「震」に分けて、これを東方守護神である龍と解釈すると、創始伝説に云う龍王は確かに北斗のリュウオウと考えられないでもない。だから創始伝説の舞台を中原から見て東にあたる江州にしたのかもしれない。

 玄奘は弘福寺翻経院にて多くの仏弟子に武芸を授けたが、その幾つかの奥義は嵩山少林寺に伝わり、また玄奘三蔵を「慈恩太君」と尊崇する慈音鴻哭拳もその裔である。その正統は南岳衡山に伝えられ、以来"大乗南拳"を称した。伝説に云う蒲田少林寺(福建少林寺、南少林寺)の源流が大乗南拳であるとする説がある。

aside

*1
2007/02/02.加筆再編

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