三十一篇全比較

物語の無意味化

 およそ物語…特に昔話や神話などには意味や教訓があると信じられていると思うが、實はあらゆる物語には意味も教訓もないものである。教訓話として作られたものですら例外ではない。物語とは単に事実乃至架空の出来事を説明するものでしかなく、其処に意味を込めよう、教訓を込めようと思うのは、作話者の願いに過ぎない。

続き

 何故物語に意味乃至教訓が籠められないのか。それは物語の解釈が読者乃至聴衆に委ねられた作業だからだ。作者は、物語を作り、ある程度解釈を誘導することまでは出来る。然し其処から先に作者の意思が及ぶことはない。其処から先は読者乃至聴衆の領分である。これを作者が操作する術は殆どない。もし操作したいのであれば、いっそ作話をやめて、伝えたい意味なり教訓なりを直接言葉で伝えた方がいい。物語と意味乃至教訓は巧く繋がらないものなのだ。意味なり教訓を伝えたいなら、物語なんて七面倒臭いものは使わない方が早い。
 ただ、それはそれとして、物語にも作者の願いくらいは籠るし、作者や制作の背景も少なからず作品に影響を及ぼし、これらが意味なり教訓として解釈(誤読)されることは多々ある。我らが如き北斗istは『北斗の拳』のその部分を敢て解釈(誤読)することで遊ぶわけだが、物語の本質について知らんとする場合に於いてはノイズにしかならない。

 其処で、『北斗の拳』を分析するにあたり、岡田斗司夫の説に諸々の説を加えて編出した「均等分割法」を用い三十一各篇を七場面に分けてみた(厳密には三節四分割)。この方法は、映画脚本理論を流用している為、物語の骨子を理解する助けになるのは勿論だが、もうひとつ、物語を場面毎に区切ることで、その場面で何が行われていたのか、その「筋道plot」が追い易くなる利点がある(筈である)。
 「筋道plot」が明らかになれば、更に「行為act」と「論法logic」が読取り易くなる。「行為act」とは物語中でのキャラクタの客観的な役割(機能)、「論法logic」とはキャラクタが物語中に生じた論理的葛藤を解消する為の理窟のことを指している。「行為act」については先に述べたグレマスの「行為者モデル」を用いて考察することとする。「論法logic」については、七場面から読取る論旨である、それ程複雑なことにはならないので、そのまま記述することにする。

Comment List

Contribute

  • コメントを入力して[Resist]を押してください。
Name
Mail
URL
Comment
Delete Key
Public
Resist Key
「numeri」と入力してください。

CopyRight(C) 1998-2011 「北斗の拳 蒼天の拳 DFS 北斗の庭園」 All right reserved.