三十一篇全比較 29.サヴァ王国篇 218-227話(全10話)

 断言は出来ないが、本篇はシェイクスピアの『リア王』*1、もしくは黒澤明の『乱』*2の翻案だ。年代からして1985年公開の『乱』の方を参考にしたと思われる。特に最後カイが死ぬ件は『リア王』より『乱』に似ている。
 だが、本篇では長兄カイが死んでいる。『リア王』では最後に末娘コーディリアが、『乱』では末弟三郎が死ぬ。この差異は何だろうか。多分これは本篇を悲劇にしない為だ。
 初めカイ・ブコウ・サトラは典型的な"三馬鹿王子"として登場し、延々と醜態を曝すが、ケンシロウに力の差を見せつけられて以降は改心し、お互い譲り合うことを憶えた。そうなった以上、此処で『リア王』『乱』同様にサトラが死んでしもうては、幾ら何でも悲劇に過ぎる。『リア王』『乱』は悲劇だからそれで構わないが、『北斗の拳』は少年漫画だ。未来に希望を託さねばならない。
 兄弟の中で真先に譲ることを憶えたのはサトラだった。次いでブコウが目覚めている。常識的に兄弟間でのプライオリティ(優先権)は兄にある筈だ。弟が兄に優越しようなどとは抑も弟の思い上がりに過ぎない。だから最も思い上がっていたサトラが一番に改心し、次いでブコウが改心するという順序は、至極当然の成行きである。
 この三兄弟で最も罪が少いのは長兄カイだ。思い上がった弟たちを諭すことが出来なかったに過ぎない。だからサトラとブコウが正しい弟として振舞えば、カイは正しい兄に立戻る。サトラとブコウが改心した結果、カイは「まってくれ!!」「たのむ!!」「オレたちが/井の中の蛙で/あること/よーくわかった」「たとえ三人でも/あんたには/かなうまい!」「な……/ならば/願わくば」「こ……/この命で/そのふたりを/見逃して/やってくれ!!」(JC:25:192-193)と命乞いをしてみせた。實に兄らしい振舞いと云える。カイはもともとこういう兄だったのだ。
 およそ兄弟とは弟が兄に先を譲り兄が弟に後を譲る状態こそ正しい。少なくとも儒教の影響下にある文化圏ではそういうことになっている。「兄のおさがりを弟は/着ることができる」「だが弟の服は/兄では着れぬ」(JC:26:046)とは将にそのことだ。ならば、アサムが既に死の際にあり、兄弟の中からもう一人死なねばならないのであれば、それはカイ以外であってはなるまい。兄は後を譲る弟がいてこそ安心して死ねるのだ。カイであれば、カイより後事を譲られることでブコウとサトラは"立派だった兄の弟"として誇りを胸に強く生きてゆくことが出来よう。だが、假にこの時サトラが死んだならば、例えどんな立派な死に方であろうと、「弟の服は/兄では着れぬ」。カイとブコウはサトラの死を悔むしかない。これは悲劇だ。少年漫画は少年に未来の希望を託するものだ。どんなに芸術的に美しく仕上がろうと、どんなに思想的に高等に仕上がろうと、決して悲劇であってはならない。
 思うに、本篇は曾て兄弟間で競い助け合うことが出来なかったケンシロウの罪滅ぼしである。ラオウ様にも北斗神拳を継ぐ資格があることを、ケンシロウはラオウ様が御帰天召された後になって気付いた。それを、若さ故に競い合うことしか出来なかったケンシロウは、悔いていたのではあるまいか。だからアサムに「三人の後継者たちを/抹殺してくだされ!!」(JC:25:103)と依頼されながら、脅かすだけに留めたのではないか。「父の愛に/溺れ」「その父の愛を/忘れ盲目となった/クズども!!」(JC:25:181)とは自責の言葉ではないか。サヴァの啀み合う兄弟に、ケンシロウは己の過去を見たのではあるまいか。

 猶、カイは『リア王』のコーディリア、『乱』の一文字三郎の役割を次いで死んでいるわけだが、だからといってカイがコーディリア乃至三郎の全ての機能を引受けているというわけでもない。一部はきちんと末弟サトラが引受けている。ブリテン王家を勘当されたコーディリアがフランス王妃になり、一文字家から追放された三郎が藤巻家の婿になったように、サトラも婚約者であるブランカ王女ルセリを娶るべくブコウに王位を譲って旅に出ているのだ。つまり、コーディリアと三郎にあった婚姻関係は次篇の切掛として流用されている。『リア王』乃至『乱』を知らねば読者にとっては別にどうということはないことだが、知っていると武御大は實に凄いことをやっているのである。我ら北斗istはこういうことを讃えねばならない。

続き

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  • 序:アサムとケンシロウの結縁
  • 破:三王子との訣別
  • 急:アサム、決死の奮闘

 本篇は旅立つリュウに「リュウ様…/見つめるのです/見つめ続けるの/です」「ケンシロウ様を/そして/その闘いを!!」(JC:25:048)とバルガが胸中で願う処から始まる。「ケン……/これから/どこへ/行くの…」と問うリュウに、ケンシロウは「あてなどない/ただ この旅は/オレとおまえの/試練の旅…」(JC:25:050)と答えた。堀江御大曰く、ケンシロウの旅は「人間に会う旅」だ。それを示す台詞が「久しぶりに/人間にあった/気がする…」(JC:01:060)であるという。そんなケンシロウを見、ケンシロウの闘いを見る旅は、リュウにとっても「人間に会う旅」である。
 アサムを見てケンシロウが「まだ あんな/英雄が……/この国には/とどまる価値が/あるかもしれん」(JC:25:083)と述べたように、アサムは希代の英雄である。神の捨てた地を拾い、豊かな国土を啓き、病を隠して野獣どもから民を守り、死ぬまで戦い続けた。
 アサムが特異なのは、シン、ユダ、サウザー、ラオウ様、カイオウなど、王たらんと欲しながらも道半ばにして果てた英雄と違い、偉業を成し終えた英雄王であること、また子の成長を待たずに死んだシュウ、フドウ、アイン、ファルコ、ラオウ様と違い、子を成人まで育て上げた老いた父親であることだ*3。つまりアサムは、譬えサラ以外の子の出来が悪く、野獣どもに国土を狙われているにしても、一応は事業を成し終えた王であり、子育てを終えた父親であるということだ。アサムはラオウ様より先、シュウやフドウより先に至った人物なのだ。
 本篇は話の規模こそ小さいものの實によく出来ている。リュウにとってラオウ様は父であるが、世間にとっては"覇王"の代名詞だ。即ちリュウにとってラオウ様は王であり父でもある。故にリュウはラオウ様と同じく王であり父であるアサムを見届けることで擬似的にラオウ様を見ることになる。前篇で「強い!/男の誇りって/強い!」(JC:24:170)と知り、戦士でなかったコウケツを反面教師として戦士であることを知り、北斗神拳を目の当たりにして恐怖を知ったリュウが、本篇ではアサムを介して、王であること、父というものを知る。これは恐らく原型になったであろう『リア王』若しくは『乱』にはなかった仕掛けだ。矢張り翻案はこうでなければならぬ。パクリと翻案の境界は其処にオリジナルの意図、仕掛け、メッセージがあるか否かであろう。

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  • 起:サヴァ国の王女→神が捨てた地→英雄アサム
  • 承:譲らぬ三王子→国王といえど父→三王子の無様な始末
  • 転:生き物は割ることはできぬ→強さのケタが違う→三王子の和解
  • 結:アサムの夢→三人は二度と離れはしません→アサムの大往生

 本篇の前半は英雄アサムの偉業と苦悩、後半は三王子の愚かさと改心を描いている。
 前半でよく問題にされるのは、アサムが予言者を殺す件だ。「別に殺さんでも…」という声をよく聞く。然し儂はあれは予言者を殺すべきだったと思う。何故ならあの予言者は「よいかアサムよ/この中からひとり/後継者を/選び」「残る/ふたつの凶星を/消し去るの/です」「殺すのです!!殺して/後の世の禍根を断つ/のです!!」(JC:25:118)などと宣うているからだ。
 先づあの予言者はアサムのことを単に「アサムよ」と呼んでいる。「王アサム」でも「アサム王」でも「王」でもなく「アサムよ」と呼んだ。一応敬語は敬語であるが、後には「なにを/ためらっておるか/アサムよ!!」「選ぶのだ/それが国を/統治する者の/定め!!」と王に向かって命令している。それでアサムが迷うくらいだから、それくらい高い地位にある予言者だったことが判る。余程の名声を得た予言者であったか、或いはアサムを補佐した建国の功臣だったのだろう。
 どれだけ名望があろうが、幾ら建国の功臣であろうが、およそ予言者なんてものが国家に於いて高い地位にあって正しく国を導いたことはあるまい。民百姓の名声を集める程度ならば、まぁ問題ないにしても、国王の側にあって国政に口出すようになると始末に負えない。ましてやこの予言者は王子を殺せなんてことを云うている。ただの父親ならそんな預言一喝して斥ければ済むことだが、王なれば、これ以上の"国政への口出し"はあるまい。この予言者こそ殺すべきである。アサムが殺さずともコドウ辺りが殺しておくべきである。生かしておけば、それこそ予言者だ。あとが面倒である。こいつこそ「後の世の禍根」たるべき存在になり得た。結果、この予言者が預言した通りになりはしたが、そんなものは結果論だ。「国王たる者」(JC:25:120)、こんなことを宣う奴を生かしておいてはならない。「一刻の猶予も/ありませぬぞ」(JC:25:119)とはこの予言者にも当て嵌まることだった。
 後半面白いのは、シュタールのゲリラの策に引っ掛かって炎に包まれた副官たち(ダイナとガイラスとヤン)を見て三王子が冷汗を流すが、中でも最も驚いているのがサトラであるということだ。普通に考えれば最初に追撃を命じたカイ、若しくはガイラスに「し…しかし/深追いは/危険では…」(JC:25:133)と忠告されておきながらそれを斥けて追撃を命じたブコウこそもっと悔いねばならぬのに、カイとブコウは悔いると謂うより口惜しがるという表情で、それに対しサトラは茫然として己の不手際を悔いているようである。サラが「兄さん/あなたたちの意地の/はりあいのため/大切な兵が」(JC:25:137)と責めた所為かも知れぬが、三王子の中でサトラが最初に「譲り合うこと」を憶える、という伏線かも知れない。或いはサラの切なる願いが僅かでも効いていたことを示しているのかも知れない。

 因みに黒影が生んだ素晴らしい若駒を三王子が取り合って殺してしまうエピソードは、何か元になる話があるような気がするのだが、何だろうか。儂はソロモン王の故事*4しか思い浮ばない。もし武御大が何処からか話を借りてきたのなら、もっと映画とか小説とか、或いは近現代の事件とか、一般的な故事から採るように思う。誰か心当たりはないかしら。

aside

*1
 シェイクスピア作の悲劇で、だいたい以下のような話。
 ブリテン王リアには三人の娘が居た。長女ゴネリル、次女リーガン、末娘コーディリアである。高齢のリア王は退位するにあたり「誰が一番孝行娘か」と三人娘に問うた。ゴネリルとリーガンは父への忠孝を誓う。然しコーディリアの答えは誠実ながら正直すぎた。憐れコーディリアは勘気を被り勘当されてしまう。
 処が忠孝を誓うたゴネリルとリーガンに後を譲ったリア王も、次第に疎ましがられるようになり、竟には追出されてしまい、荒野を流離う内に気が違ってしまう。
 一方、フランスに渡って王妃になっていたコーディリアは父リア王の惨状を知って救わんと欲し、兵を起しブリテンを攻め、戦場のテントでリア王と再会し、リア王は正気を取戻す。然しフランス軍は反目しつつも連合するゴネリルとリーガンの軍に敗れ、捕虜になったコーディリアは処刑され、リア王は息絶えたコーディリアを抱いて失意の内に死ぬ。
*2
 1985年公開の黒澤明監督映画。『リア王』の世界を時代劇に置換えた内容で、粗筋は同じ、ブリテンを一文字家(架空の戦国大名)、フランスを藤巻家、リア王を一文字秀虎、ゴネリルを太郎孝虎、リーガンを次郎正虎、コーディリアを三郎直虎と読替えればそのまま。
 因みに古い映画ファンは「儲け主義に走った俗悪な作品」と忌嫌うが、そんな云われ方をするほど酷い作品ではない。寧ろ佳い映画だ。多分、白黒で育った世代の人々にはカラー作品の映像美が理解出来なかったのだろう。ただ、これ以降邦画の主流が「映像美の追求」に走ってしもうたが為、その口火を切ったという意味では罪作りだ。映像美を追求した映画ってほんとに面白くないからね。
*3
 事業を成し終えた支配者…という意味ではカイオウ、子育てを終えた父親という意味ではリュウケン、オウガイ、ジュウケイ、赤鯱を数えねばならぬのかも知れぬが、カイオウは「新世紀創造主」たらんと欲して果たせず、リュウケン、オウガイ、ジュウケイは己の過ちの尻拭いを出来ぬままに死んでいるので、"終えた王""終えた父"とは謂い難い。
 それに比べると、アサムは自らの意思で己の過ちを正す道筋を調えてから野獣征伐に出ており、王としても、父親としても、充分に責任を全うしたと云える。アサム以前にそのようなことが出来た王はいない。唯一、父親としては赤鯱がいるだけだ。
*4
 ある時ソロモン王を二人の遊女が訪ねてきた。一方の遊女はこう訴えた。
「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子をわたしのふところに寝かせたのです。わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、わたしの産んだ子ではありませんでした」
 するともう一人の遊女が言う。
「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」
 これに先の女が言い返す。
「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です」
 女が言い争うので、王は剣を持ってこさせてこう言い渡した。
「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ」
 すると片一方の女が「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないでください」と乞うた。もう一方は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と願った。
 これを受けて王は「この子を生かしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である」と言い渡す。この裁きを聞いてイスラエルの民はみな王を敬うようになった。
 これは『旧約聖書』列王記上三章十六節から二十八節にある有名な話で、『棠陰比事』『千夜一夜物語』『大岡政談』にある同構造の類話は全てこれに由来する。

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