三十一篇全比較 30.光帝バラン篇 228-236話(全09話)

 儂は権威主義者である。個人の力よりも権威の方が遙かに強いと固く信じている。よく「自分の言葉で語れ」なんて云う人がいるが、馬鹿云っちゃいけない、世間が如何に学者と医者に弱いことか、知らない人はおるまい。俗流とはいえこれだけ民主主義が猖獗を極める本朝に於いて、未だに「北条家の子孫」だの「冷泉家の後裔」だのという家名にも平伏す人は多い。権威者を敵視する左の人だってマルクスだ毛主席だサルトルだと権威に縋るのだから、権威は大事である。権威を無視して生きられる人は居ない。だから「誰々曰く」と着けられるなら着けておくに越したことはない。借りられる権威は借りられるだけ借りるとよいと儂は信じている。

続き

 當サイトは「Demiurgethic fan site」を自称しているが、"Demiurgethic"とは"デミウルゴスDemiurge"と"ゴシックgothic"を組合わせた造語で、儂が造る以前には存在していなかった言葉である。儂が使用をやめれば無くなるであろうことは必至である。
 "デミウルゴスDemiurge"とはギリシア語で「職人」「工匠」を意味する語で、プラトンが『ティマイオス』にて世界の造物主を「デミウルゴス」と呼んでいる。何でもデミウルゴスがイデア界(本質界)を模倣して我々が住む物質界を創造したのだそうだ。グノーシス主義(古代キリスト教の秘教的思想体系)ではこの神話を援用し、デミウルゴスとユダヤの唯一神(YHVH)を同一視した上で、この世が不完全で悪に満ちているのはプレーローマ(超越的永遠世界)におわすアイオーンaeonを真似てこの世界を創造(模造)したデミウルゴスが白痴で無能だからだとし、本来固有名で呼んではならぬこの神を敢てヤルダバオートJaldabaothと名づけて批難している。尋常に"デミウルゴス"と云う場合、だいたいはグノーシス主義が謂う"偽の唯一神"を意味することが多い。
 "ゴシックgothic"とは本来「ゴート人の…」を意味する語だが、普通は中世風の美術様式のことを指し、十五世紀から十七世紀頃までは野蛮で下品な文化であると侮蔑され、専らそのような意味で用いられていたが、十九世紀以降はその反動から再評価されるようになり、中世趣味という形で愛好され、現在尋常に"ゴシック風"という場合は重厚さを伴う中世風の美術…大概は建築様式を謂う。
 儂が何故「Demiurgethic」なんてありもしない言葉を造ったのかと云うと、このサイトにあるテキストがデミウルゴス的でありゴシック的だからだ。デミウルゴスはアイオーンを真似て「先づ初めに言理ありき」と宣言することで偽りの世界を創造した。同じように儂も武原堀三御大を真似て妄言により『北斗の拳』『蒼天の拳』世界をそれらしく模造している。そしてその様式は神学的であり原理的…つまり中世的な重厚さを装おうとしている。即ち"言葉による重々しい模造品"を目指して作っている。故にこれを「Demiurgethic」とした。如何にも権威主義者のやることである。嗤うなら嗤え。

 本篇の主人公バランは既存の権威たる「神」を憎悪するが故に聖国ブランカの「神」に取って代らんとした男である。神を信じる無垢なる妹ユウカを失うことで「この世界の神はデミウルゴスだ」と確信するに及び、「神」に復讐せんことを欲して「神を凌駕した/男」であるラオウ様(JC:26:196)に仕え侍り、ラオウ様の北斗神拳を偸み憶え、竟には一時期とはいえ聖国ブランカを簒奪せしめることに成功した奸雄であった。
 そんなバランの失敗はラオウ様を模倣したことだ。何故ならバランは「この世界の神はデミウルゴスだ」とする一方で、ラオウ様を「神を凌駕した/男」としている。つまりラオウ様はバランにとってアイオーンなのだ。ならばラオウ様を模倣するバランと、アイオーンを模倣するデミウルゴスの何処に違いがあろう。デミウルゴスを憎んだバランはラオウ様を模倣することでデミウルゴスになったのだから、真のアイオーンであるラオウ様の御子リュウが顕れれば敗れ去るより他ない。本来無垢なる妹ユウカを失うて世界の缺陥を見出したバランは"魔術師シモンSimon Magus"であるべきだった。
 魔術師シモンとはナザレのイエスと同じ時代を生きたサマリア人で、グノーシス主義の始祖であるとされている。フェニキアからローマで活動し、魔術を見せて信者を集めたという。『新約聖書』にはシモンが使徒に頼んで祝福の力が得られるよう銭を差出したという話が記されており(使徒行伝08:09-25)、この故事から「聖職売買」のことを"Simonie"という言葉が出来たのだそうだが、これはキリスト教を脅かす宗教者であったシモンを貶める為に作られた話で、事実ではないという。グノーシス主義ではシモンこそ悪に満ちた物質世界から"聖なる魂"を救い出す救世主だとする。何でも、シモンは常にヘレナなる女を連れていて、曾てヘレナは全ての人と天使の母であったのだそうだ。処がヘレナを妬んだ天使がその"聖なる魂"を人の肉体に幽閉し、ヘレナは幾度もの転生を経て売春宿に流れついたという。そのヘレナを幽閉した天使の首長こそ『旧約聖書』の唯一神であり、この唯一神は愚かで無能なデミウルゴスに過ぎず、敢てこの世を悪く治めている。シモンはこのような不正を正す為に降臨した救世主で、売春宿でヘレナと出会い、その"聖なる魂"を解放し、世界を救うのだとか。
 ヘレナの来歴は単に売春宿="物質界"に閉込められたヘレナ="聖なる魂"が救世主シモンによって解放される…という教義を写した寓話に過ぎないという説もあるが、儂は別に寓話と考えずとも、そのまま読んでよいのではないかと思う。つまり、シモンにとってヘレナは『機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブルにとってのララァ・スンのような存在で、つまりシモンはヘレナにぞっこん惚れていたわけだ*1
 バランはルセリの中にユウカを見出し、ルセリにぞっこん惚れていた。ユウカをデミウルゴスに幽閉されたヘレナであるとすると、ルセリは売春宿で出会うたヘレナだ。バランと出会うた時、ルセリは盗賊に腿を刺されて傷を負うていたが、あれは多分強姦の隠喩であろう。でなければバランほどの男がたかだか腿の刺傷如きで「きさまは/しるまいが/神を信じた/愚かさから」「ルセリは/この体に/傷を負って/しまったの/だ!!」(JC:26:160)などと大袈裟に喚くまい。ルセリが"女としてもっともおぞましき憂き目"に遭うた故にバランはあそこまで憤るのである。それは"聖なる魂"であるヘレナを売春宿で見付けたシモンと同じ憤りであろう。売春宿くらい"おぞましき浮き世"を象徴する場所はあるまい。
 そんなバランが解放するべき"聖なる魂"であるルセリを鎖で縛ったりしちゃいけない。これこそデミウルゴスのやることである。但し今際の際に「サトラよ/あ…愛は/最強」「その愛で/ルセリを/守るがいい」(JC:27:024)と訓誡を残した辺りに"魔術師シモン"になり損ねた自覚が見えるので、これでバランの罪は綺麗に贖われたとしてよかろう。

 だが、バランは己がデミウルゴスであったこと悟り、敢て「ニセモノ」(JC:27:018)として死にブランカ王に国を返したが、その後の行く末を考えると、どうも内乱の火種を残してしもうたようにと思う。というのも、バランが簒奪するまでのブランカの民は良くも悪くも愚かだった。でなければ「羊の民」(JC:26:073)などとは呼ばれまい。息をしなくなった我が子を抱いて泣喚く婦人と髭面の男の販促広告が如きやりとり(JC:26:091)や、盗賊に襲われたルセリの立振舞い(JC:26:163-166)は、どう好意的に読んでも愚かだ。「信仰心に/厚い民」(JC:26:075)というより、バランが言う通り「神への/盲信」(JC:26:140)の類であろう。それが、バランの奇跡に触れ、脆くも砕け散った。バランが「ニセモノ」として処刑された後も、それは回復していない。バランは「元に戻さねば/ならぬ……」(JC:27:008)と云うて死んだが、とても元通りになったとは思えない。バランへの帰依がやがてブランカの治世を脅かしはしないか。
 このバランのやりようは、恰もプロメテウスPrometheusのようだ。プロメテウスとは人類に苦役を強いる神々の王ゼウスに反抗し、天界より「火」を偸みだして人類に授け、その罪でコーカサスの山頂に縛り付けられたギリシア神話の神だ。縛り付けられたプロメテウスは毎日大鷲に腹を裂かれて肝臓を啄まれており、神故に不死のため永遠に死ぬことなく責苦を強いられるという。世界を敢て悪く治める神王ゼウス=デミウルゴスに反し、人類に智慧を授け責苦を強いられる典型的な救世主と謂える。「太陽の/子」(JC:26:100)と呼ばれたバランの奇跡はラオウ様より偸み憶えたもので、これはプロメテウスの"火"に相当するものだ。そして敢て苦しい死に方を選び、愚かな民に叛乱の因子を残している辺りも實にプロメテウス的である。
 よくよく考えてみると、バランは「天を握ろうと/した男!」「拳王という/巨人!!」(JC:26:177)を表面的に模倣していたに過ぎないことを悔いたのであって、決して神と和解したわけではなかった。ならばブランカ王に国を返す義理はあっても民の信心まで取戻してやることはない。リュウによって蒙を啓かれたバランは愚かな民に智慧を授けてプロメテウス的に苦しみ死んだ。バランの死後、きっとブランカには"光帝バラン伝説"が語り継がれている。もう三面聖神が再び崇められることはあるまい。そして、何時の日か、民は自らの意思で神に背くだろう。これ以上の復讐があろうか。とても元通りとは云えないが、正しい復讐を果したとは云えよう。「元に戻さねば」の「元」を好意的に解釈するならば、それは歪んだ復讐の形のことだったのかも知れない。

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  • 序:販促広告のような「あのお方がいるではないか」
  • 破:逸るサトラ、怪物が如きバラン
  • 急:偽りの剛掌波、通じず

 儂は本篇の「おちつき/なさい」「大丈夫」「この/ブランカには」「あのお方が/いるではないか」「ああ光帝/バラン!!」「そう」(JC:26:091)の行が一番好きだ。特に最後の「そう」が佳い。面白い。これがあるだけで御飯三杯は食えそうだ。
 そうでなくても、序破急には見事に"ここぞ"という場面が並んでいる。一歩間違った北斗神拳の胡散臭さを如実に描いている。確かこの頃漫画界では『北斗の拳』を上辺だけ真似た作品が濫造されていて、そのことについて武御大は「馬鹿なことやってるな」と思うておられたそうだ。『北斗の拳』の本質は「愛」や「生き方」「死に方」であって、暴力描写や秘術的描写ではない。それを、上辺で模倣してしまうと、途端に気持ち悪くなるという。現にあの頃『北斗の拳』を真似た厭に血腥い気持ち悪い漫画を幾本も読んだ。そしてその殆どのタイトルを憶えていない。バランという敵は、そういう表面的な『北斗の拳』を模倣した作品のカリカチュアだったような気がする。

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  • 起:狂信者の国→ブランカの陰謀→ブランカの異変
  • 承:秘孔を使う者→救世主の裏側→ルセリとの約束
  • 転:神への憎悪→神を信じる愚かさ→バランの暴走
  • 結:世紀末の巨人→世紀末覇者の心→男の死に様

 起承転結、孰れも「實は…」で出来ているが、これは『北斗の拳』が次篇で終るに際し、今までの戦いが何であったか、という評価を含んでいる。ラオウ様御帰天後に世はどのように治ったか、ケンシロウとラオウ様の戦いが後世に何を残しているのか、といった情報の断片である。凄絶な男たちの戦いが終り、素晴らしい男たちが世を去り、世界は平和と云えないまでも、ある程度治った。然し、少し寂しくなった。だが、まだリュウのように世紀末の魂を継ぐ者があり、また小粒ながらバランのような英雄も残っている。そういう世界の形を描き、ケンシロウと読者の旅はいよいよ次篇で終る。ケンシロウの旅は終らないが、読者とはお別れだ。読者は『北斗の拳』世界の行く末を、少しばかり垣間見て、次はケンシロウの行く末を見る。

aside

*1
 ララァ・スンはインドでシャア・アズナブルに拾われた少女であるが、作中で「私のような女を拾って頂いて…」と発言したことから、多くのファンが「ララァは娼婦だったのではないか」と考えた。すると後に原作者富野由悠季自らが小説『密会〜アムロとララァ』にてララァを娼婦として描き、この説が確定した。
 シャア・アズナブルに引取られたララァはニュータイプとして卓越した力を発揮し、「ソロモンの亡霊」と呼ばれて怖れられたが、戦場で出会うたアムロ・レイと意思を通じ合う仲になり、やがて悲劇的な戦死を遂げる。アムロはララァの死の間際に「また何時でも会える」と別れを告げていたが、永遠に宇宙を漂うララァの魂は自責に苦しむアムロを更に苦しめた。また残されたシャアもララァに捕われ、やがてララァがいない寒い宇宙に絶望し、"核の冬"を地球にもたらさんと考えるようになる。

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