俳優の北斗学さんとは関係ないわ!

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北斗学
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 『北斗の拳』のテキスト論的解読を行っています。


三十一篇全比較 01.心の叫び篇 001-001話(全45頁)

 祈念すべき『北斗の拳』第一話である。「心の叫び篇」と名付けたが構成は一話限り、但し普通は一話二十頁前後である処を本篇は四十五頁あるので実質二話分を超える。

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三十一篇全比較

物語の無意味化

 およそ物語…特に昔話や神話などには意味や教訓があると信じられていると思うが、實はあらゆる物語には意味も教訓もないものである。教訓話として作られたものですら例外ではない。物語とは単に事実乃至架空の出来事を説明するものでしかなく、其処に意味を込めよう、教訓を込めようと思うのは、作話者の願いに過ぎない。

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先賢に学ぶ

メモ*1 メモ*2

先例はなくても類例くらいはある

 さて、三十一篇を比較しよう…とする前に、先づ確認しておかねばならぬ。儂はただ『北斗の拳』三十一篇を一々突合わせて揺るぎないパターンを抽出すると書いたが、それは如何にして行うべきか、その方法を示していない。
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aside

*1
2006/10/30.細部修正
*2
2007/01/19.大幅加筆

比較方法検討

『北斗の拳』では前例がない

 『北斗の拳』三十一篇をどのような方法で比較するべきか。
 儂は1997年からwebを巡回しはじめ、『北斗の拳』に関わるwebサイトの掲載論文をだいたい読んでいる筈だが、類する考察に当ったことがない。どうやら誰もやったことがないのだろう。お蔭でどのような方法が適切か、儂が考えねばならぬらしい。論文だから先行する研究の検討からはじめたかったが、『北斗の拳』ではそれも出来ぬようだ。
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三篇相似

メモ*1 メモ*2 メモ*3 メモ*4

『北斗の拳』には似た話が幾つかある

 連載を終えて二十餘年を過ぎた今でも儂は『北斗の拳』を度々読返す。だが如何に『北斗の拳』が名作と雖ど第一話から最終話まで通して読むことは殆どなくなった。今は、例えば「天翔る天狼篇」を読んで、次は「カサンドラ篇」、その次は「ケンシロウ追憶篇」を読むという工合、好きな箇所を好きな時好きな順序で読んでいる。
 このような読み方が出来るのは、儂が『北斗の拳』の内容を殆ど憶えているからだ。流石に「某頁の某齣目の台詞は何だったか」などと問われると判らないが、物語としてなら未開地の原住民が部族の口承伝承を説くが如し、およそ精確に物語ることが出来る。特に我々連載当時を知る世代とって『北斗の拳』は学校の遠足や修学旅行のような想い出だ。それを凌ぐかも知れぬ。そうでなくとも幾百度となく読返した北斗istなら、当然粗筋くらい憶えている筈だ。こういう読者にとって、最早物語の順序は問題ではない。何処から読んでも同じだ。前篇後篇を記憶で補完出来る。好きな話を好きな順序で愉しめばよい。
 このようになった北斗istが『北斗の拳』について論じようとすると、どうしても細部の話をしてしまいがちだ。やれガイラスだ、やれモリだと、名があったのかと思うような人物の名を憶えていることを競い合う傾向にある。それは知識自慢という面があり、北斗istたる己の確認作業でもあり、實にマニア的*5で、實に愉しい。儂もインターネットを初めて四年くらいは、やれザク様だ、やれヌメリだ、やれブゾリだ、やれクジン様だ、ヒフーン、とそればかりして遊んでいた。
 だが、ある時何となく「ジュウケイ無惨篇」「女神の涙篇」「修羅の国決着篇」を通して読んで、奇妙なことに気付いた。この三篇で描かれたカイオウにまつわる故事、つまり「カイオウ故事」が、どうも「ジャギ篇」「聖帝サウザー篇」に似ているのだ。
 「カイオウ故事」は『北斗の拳』の数ある逸話の中でも餘り好まれているとは云えない。多くの北斗istはカイオウをラオウ様の贋者と見なし、人によってはラオウ様の劣化コピーとまで謂う。殆ど酷評と云える。だがよく読んでみると「カイオウ故事」は餘り「ラオウ様故事」と似ていない。似た要素が餘りない。寧ろキーワードを拾うてみると「ジャギ篇」「聖帝サウザー篇」と似た語句が多い。
 では念の為に三篇の粗筋を記してこの三篇の相似を確認しよう。
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aside

*1
2005/12/13.全文改訂
*2
2006/03/16.加筆修正
*3
2006/09/03.全文改訂
*4
2006/10/03.加筆修正
*5
 オタクという云い方が一般的なのだろうが、ここは敢てマニアとした。マニアとオタクを何処で分けるかについては諸説あるが、儂は性欲を伴って没頭する者を"オタク"、伴わない者を"マニア"としている。
 岡田斗司夫や唐沢俊一の世代のオタクは性欲を伴っていなかったように見えるが、原初のオタクである"SFファン"や"ファンタジーファン"について調べてみると、どうも性欲を伴っていたらしい。SFにつきもののグラマラスな金髪美女がその対象だったのではないかと考えられる。
 オタクに対する世間の嫌悪感は詰まるところ性欲に対するものだ。"萌え"という新概念を編出して性欲臭を打ち消そうとしているが、"萌え"も所詮性欲に過ぎない。"メイドカフェ"なるものも結局は淡い風俗なのだ。直接的な性に対する恐怖心がああいうものを生みだすのだろうが、言葉を別にしても本質は"性欲"に過ぎず、そういうものを隠そうとする行為もまた、世間が持つ嫌悪感に繋がっている。
 『北斗の拳』の愛好はおよそ性欲を伴わない。たまにはいるみたいだが、原哲夫御大の絵が性欲を喚起し憎い為、例え具体的な性を描いたとしても、性欲を喚起する描写にはなり憎い。故に北斗istの殆どは北斗"マニア"であって"オタク"ではないと云える。

北斗三十一篇

メモ*1 メモ*2

『北斗の拳』はどう区分されているか?

 『北斗の拳』は二百四十五話にも及ぶ長篇だが、話が前後するような箇所はあまりなく、すっきりと読み易い作品である。然しそれでも引用して論じるにしては物語が長すぎ、ある程度短く区分しておかないと何かと不便だ。
 『北斗の拳』の区分には幾つか方法があるが、最も一般的なのは拳王様の御帰天より前を第一部、御帰天より後を第二部とするやり方であろう。原作にそのような区分を示す記述があるわけではないが、アニメ版では拳王様の御帰天を以て一端最終回とし、以降を『北斗の拳2』と改題していた為博く受け入れられている方法である。世間で普通に話すにはこれが用い易い。だがこの区分方法は少々使い憎い。というのも、拳王様御帰天以前のアニメ版『北斗の拳』は長篇である為か「第一部」「第二部風雲龍虎編」「第三部乱世覇道編」「第四部最終章」と区分されている。従って単に「第二部」と表現すると、拳王様御帰天以降か、それとも「風雲龍虎編」か解り憎い。一般に『北斗の拳2』を第五部ということもないので解り憎く、またそういうのであれば帝都と修羅の国の段を分けた方が伝え易い。然もカイオウ死後がアニメ化されていない。アニメ版の区分に依拠すると、どうしてもサヴァ王国やリュウのことを論じ憎い。アニメ版の区分には従うべきではなかろう。アニメ版の区分を考えないにしても『北斗の拳』は長篇である。前後二篇では区分が大きすぎる。もっと細かい区分を考えねばなるまい。
 単行本、愛蔵版、もしくは文庫版の巻数で区分する方法も考えられるが、これはこれで使い憎い。単行本にしろ、愛蔵版、文庫版にしろ、きちんと一巻一巻で一つの話が落着せず、多くの場合跨っているからだ。特に単行本十六巻はラオウ様御帰天の逸話を含んでいるが、其処で終らない。即次の話に続く。もっと簡単な話、アミバが何巻で死ぬか即答出来る人が幾人程いるだろうか。そうそう居まい。そういう区分では使い憎かろう。
 色々考えてみたが、結局『北斗の拳』は様々なメディアで版を重ねているものの、どれも巧く区分出来ているとは云えない。既存の方法ではどれも使い憎い。故に自分で方法を考えた。
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aside

*1
2005/12/13.加筆修正
*2
2006/09/03.加筆修正
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